としまひすとりぃ
ひと×街 ひすとりぃ

様々なひとが暮らす街。
ひとりひとりの日々の暮らしからそれぞれの物語が紡がれ、街の歴史を織りなしていく…
そんな物語の軌跡を区民インタビュアーがたどります。


3 女性史編纂と伝記映画自主製作

友の会の活動をしている時、社会的にもブームになっていた女性史編纂の話が舞い込んだ。立教大学非常勤講師で区の社会教育指導員でもあった長谷幸江さんを編集長に女性編纂委員を公募、友の会にも声がかけられ、25名の編纂委員の一人として小池さんも参加することになった。

平成3(1991)年から足掛け6年に及んだ編纂事業は、『風の交叉点―豊島に生きた女性たち』全4集(※8)にまとめられ、ドメス出版から発行されている。豊島区に生きた女性たちの声を豊島区に住む女性たちが取材し著述した、まさに生きた地域女性史である。その時に雑司が谷担当となった小池さんは、取材した中でも印象に残る二人の女性について話してくれた。

一人は第1集に収められている立石多真恵さん(明治36年生まれ、取材当時88歳)。戦災の傷跡がいまだ癒えない昭和23(1948)年に保護司となった女性である。そういう役に就くのが男性ばかりだった時代に、父親からいつも社会に目を向けるようにと育まれたボランティア精神と女性ならではのきめ細やかな心配りで、非行や犯罪に走った人々のために奔走した。昭和28(1953)年に労働省東京婦人少年室協助員に任命されてからは、国会図書館に働きかけて1000冊の本を借り受け、働く青少年のための夜間図書館(「雨にも風にも負けぬ教室」青少年図書室)を開館。昭和34(1959)年に民生委員、39(1964)年に青少年委員(※9)、42(1967)年には集団就職で東京に来た人たちのための「母の家」を引き受けるなど、「主婦に一体何ができるんだ?」という周囲の声に怯むことなく、家族の協力を得ながらボランティア活動に心血を注いだ。そうした立石さんの生き方は小池さんの胸の内に深く刻まれ、「後に私自身が民生委員を引き受けることになった時、立石さんのようになれたらと、ひとつの指針になりました」という。

そしてもう一人の忘れられない女性が女性視覚障害者の教育と地位向上に生涯を捧げた斎藤百合さんである。明治24(1891)年生まれ、麻疹が原因で3歳の時に失明した斎藤百合さんは、様々な障害を乗り越え、東京盲学校師範科(※10)卒業後、結婚して雑司が谷に居を構える。盲女の結婚・出産に対する偏見が根強くある中、目が見えなくとも、女性としてあるがままに生きていける社会をめざし、設立間もない東京女子大に入学、家事・育児・勉学を両立させながら活動の幅を広げ、女性障害者達が共同生活する「陽光会ホーム(※11)」を設立。さらになる理想の教育の場をめざし、「盲女子高等学園」創立に奔走するも、激化する戦争に翻弄され、戦後まもない昭和22(1947)年にこの世を去る。結婚して同じ雑司が谷に住んでいたその波乱の生涯を知り、小池さんは深い感銘を受ける。そしてこの取材をきっかけに、伝記映画『鏡のない家に光あふれ―斎藤百合の生涯―(※12)』の製作にも関わっていくことになるのである。

「斎藤百合さんはもう亡くなっていらして、そのお嬢さんで劇団民藝の女優さんの斎藤美和さんが雑司が谷1丁目に住んでいらして、お話を伺いに行ったんです。陽光会ホームに通っていて、雑司が谷2丁目に最初の日本点字図書館をつくられた本間先生(※13)と渋谷さん(※14)と一緒に。そんなところからトントン拍子に話が進んで」と、映画製作の経緯を振り返る。平成6(1994)年に区教育委員会主催の講演会で斎藤美和さんが母・百合さんの生涯を語ったことが大きな反響を呼び、映画化が具体化、映像作家の渋谷昶子さんに演出を依頼し、平成7(1995)年8月には映画製作実行委員会(代表・秋山ちえ子さん)が発足した。

「自主映画なので自分たちでお金を集めました。お友だちや知人に一口5000円とかでお願いしました。いろんなところにご寄付をいただきました」と、足で歩いて1270件、2000万円以上もの募金を集めたという。撮影現場でのスタッフの役割も買って出た。「美和さんが本人もお母さんの百合さんも全部演じて。私たちも、警察署に道路許可をもらいに行ったり、撮影中の交通整理をしたり、照明器具を持ったりだとか、そういうこともみんなやって。私は着物の着付けをちょっと習っていたので、美和さんの着付けをしたりとか。人に頼むとお金がかかるので、できることはそれこそなんでも(女性史編纂で同じ雑司が谷担当だった)原さんと2人でやりました」と、製作時の苦労話を笑い話に変える。寄付集めも俄かスタッフも初めての経験だったが、それこそ手弁当で、みんなで作り上げた映画は、「その国の弱者が、どう扱われるかによって、その国の文化の程度をはかることができる」という斎藤百合さんの言葉を鮮やかに蘇らせた。

※8 「風の交叉点」全4集(平成4~8年ドメス出版刊)
関連資料:H040409プレスリリースH050513プレスリリースH060509プレスリリースH080417プレスリリース



※9 青少年委員 1953(昭和28)年東京都青少年委員制度発足、1965(昭和40)年東京都から区市町村に移管、2009(平成21)年度をもって廃止。

※10 東京盲学校 1909(明治42)年、東京盲唖学校を分離し設置。現・国立大学法人筑波大学付属視覚特別支援学校。

※11 陽光会ホーム 盲女子のための寄宿舎・生活訓練の場として、1935年小石川区雑司ヶ谷110(現・文京区目白台2-22-15)にて開所。1937年豊島区高田本町(現・雑司が谷3-8-6)に移転。



※12 鏡のない家に光あふれ(平成8年完成作品、16ミリ・カラー・59分、企画・製作『斎藤百合の生涯』映画製作実行委員会)。
関連資料:「鏡のない家に光あふれ-斎藤百合の生涯」『わが街雑司が谷』第22号(平成8年1月5日発行)


「鏡のない家に光あふれ」(YouTube映像)

※13 本間一夫(ほんま・かずお:1915-2003) 1940年、雑司が谷の借家にて「日本盲人図書館(後の日本点字図書館)」創設。
関連資料:『わが街雑司が谷』第15号(平成5年8月15日発行)

※14 渋谷昶子(しぶや・のぶこ:1932-2016) 映画監督、記録映画作家。「挑戦」(1964制作)でカンヌ国際映画祭短篇部門グランプリ受賞。

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