様々なひとが暮らす街。
ひとりひとりの日々の暮らしからそれぞれの物語が紡がれ、街の歴史を織りなしていく…
そんな物語の軌跡を区民インタビュアーがたどります。
2 地域の人が作った学校を、地域の手で再生へ
少子化にともなう学校合併の動きは、長男が大明小を卒業した平成4(1992)年から始まっていた。二男が卒業後の平成9(1997)年には、大明小と池袋第五小学校との統合計画(※2)が定まる。美容室の経営者として忙しく働いてた杉本さんだったが、平成13(2001)年から実施された統合説明会にはすべて参加し、大明小の「その後」を注視する日々が始まった。
大明小は、杉本さんいわく「地域の人がつくった学校」。戦後、間もない時期に地域の有志が奔走して設立された。商店や病院など地域を支える施設で働く大人たちが、廃材などを集めて資金を作り、地域住民を説得して用地を確保したのだという。池袋第五小学校から分かれて開校したのが昭和26(1951)年。杉本さんが生まれた年でもある。
「だからなお、愛着があるのかもしれないですね。何もなかった時に『子どもたちを不自由にさせないように』って、親たちが頑張ったみたいです。統廃合の話が出た後、大型児童館を作る計画がお金不足で立ち消えになったって聞いて、『これはまずい!』って思ったんですね。『売られる!? ここの人たちの避難場所はどうなるの?』って」
閉校後の施設利用案として、近くの青年館(3ページの注釈※4を参照)が廃止になる代わりに生涯学習センターが設立される案が浮上していたものの定まらず、地域をよく知る杉本さんは危機感を募らせた。すぐに行動に移り、陳情書作り、議員の署名集めなどに走った。しかも、杉本さんを含めてたった3人でのスタートダッシュだ。
地元の卒業生だと思われてきたほどPTA活動に熱心だった杉本さんだが、存続のための活動では、地域社会ならではの悲喜こもごもがあったと振り返る。地元の町会にかけあった時に感じた壁もそのひとつだったが、杉本さんらの熱意を受けて、地域の町会長がまとめ上げてくれた。そして、地元の地域ならではのよさにも助けられた。
「始めたのは、私と佐藤智重さんと横山幸子さんの3人で、それぞれが人を集めたんです。
ここっておもしろいんですよ。何かあったらすぐ手伝うから。運動会の前日に大雨が降って、校庭が水浸しになった時も、元PTA会長の中澤さんの声がけで30人ぐらいの男性が来て、水を取って使えるようにしてくれました。中澤さんたちは、男性の先生が少ない時期にも手伝いに来てくれましたね。みんなここの卒業生です。親のそういう姿を見てるから、ここの子どもたちは自分にできることをすぐにやるんだと思います。『仕事もしないで大明にばかり行って!』って、奥さんから叱られてる人もいますけど(笑)」
開校までの話でも閉校にまつわる話でも、よく出てきたのは「子どものためなら」というフレーズだ。それは、開校時に尽力した親たちの言葉であり、大明小を残すために走り回った杉本さんたちの合言葉でもある。
「この辺の子どもなら誰でもいいかな。とにかく、『子どもに関わることをみんなで差別しないで普通にしてあげようよ』っていうのが一番、大きいですかね」
「子どものために」動き始めてから3年あまり。平成17(2005)年3月、大明小は半世紀の歴史に幕を閉じた。杉本さんは5月に「大明小学校跡施設運営協議会」の会長に就任。旧校舎は生涯学習のための場「みらい館大明」として生まれ変わることが決まった。