様々なひとが暮らす街。
ひとりひとりの日々の暮らしからそれぞれの物語が紡がれ、街の歴史を織りなしていく…
そんな物語の軌跡を区民インタビュアーがたどります。
3 葛藤を経て、再び筆を執るまで
終戦の年、小森さんは大阪で医者になっていた兄を頼り、家族と郊外の豊中へ移り住み、翌春、豊中高等女学校を卒業。神戸女学院に進学すると、学業はもちろんのこと、キリスト教に対する思索や、演劇部に学生自治会の民主化活動にと、充実した学校生活を送った。青春を取り戻す日々の中でもとくに印象に残っているのは、多大な影響を与えてくれた恩師・羽仁新五氏(※8)との出会いだ。
「学校に天皇の行幸があるのでお出迎えをしなきゃならなかった時、宮本百合子の本を抱えて座り込んでたの。そこへ羽仁新五が来て『お前、何読んでるんだ』って言うから『〈伸子〉です』って言うと、『へえ、女学院にも〈伸子〉を読む子がいるんだね』って、私に目をつけたわけ。以来、羽仁先生の研究室に時々行ってはおしゃべりをして、影響を受けるようになって。ついには自治会でもいろんな責任を持つようになったの」
宮本百合子の『伸子』は、若い女性主人公の離婚をテーマにした自伝的小説である。出版されたのは昭和2(1927)年だが、結婚をめぐる生きづらさを女性の視点で描いた物語が、戦後の民主化のうねりのなかで再評価された。当時、主体的な道のりを模索していた小森さんもそのひとりだったようだ。
「(敗戦後)私はクリスチャンになりそこなって、文化工作隊の演劇活動のほうへ流れていって、退学させられそうになったのね。そしたら、デフォレスト先生っていう宣教師の校長先生が『あの子は迷える子羊ですから、イエス様は大切になさるでしょう』って言って、私を守ってくれたのよ。それで退学にならずに卒業することができたし、演劇も続けることができた」
卒業後は大日本紡績に就職し、労働組合の活動、演劇や文芸活動を続けた。昭和28(1953)年には『新日本文学』の創作コンクールに入選。さらにその間、羽仁先生を介して知り合った小森良夫さん(※9)と結婚し、第一子の陽一さん(※10)を出産した。その6年後、昭和33(1958)年には長女のまどかさん(※11)が生まれ、家事や育児に奔走するようになる。
「陽一を身ごもった時に『この子は太陽の子だ』って思ったから、陽一と名づけたんです。まどかの時には、一人で後産を待っていた時、産室の高い窓に真っ赤な夕日が見えて、『なんてまどかな夕日だろう』って思ったの。だから二人とも〈太陽の子〉なのよ。
子どもも産んだし、寝たきりの姑も抱えていたから、私が稼ぎ手にならなければならなかったのね。だから小説なんか書いちゃいられなかった。同時に、夫が国際的な労働運動の中でプラハに派遣されることになって、私も子どもたちと一緒に追いかけていくことになったの」
昭和37(1962)年、小森さんは小学校3年生の陽一さん、4歳のまどかさんを連れてチェコはプラハへと飛んだ。海外暮らしは大きな刺激となり、やがて小森さんの中に創作への意欲が湧いてくる。
「楽しかったですね。子どももみんなにかわいがられて。チェコの人たちは、日本の子どもを見ると〈ヒロシマ〉と結びつけるのね。戦時中、リディツェという町で子どもたちがナチスに迫害されたことがあって、町には子どもたちの銅像があるのだけど、そういうものを作る運動の話をする時、チェコの人たちは必ず広島の話をする。そういうつながりのようなものがある民族だったのね。そういう中で子育てをするうちにいろいろ感じるようになって、また書きたいなと思うようになった。『この体験を書かなければ』って思ったんです」
また、書きたい――。表現することへの情熱は、帰国してからも小森さんを支えていくことになる。