様々なひとが暮らす街。
ひとりひとりの日々の暮らしからそれぞれの物語が紡がれ、街の歴史を織りなしていく…
そんな物語の軌跡を区民インタビュアーがたどります。
5 運命的にめぐり合った旧宣教師館
小森さんが雑司が谷旧宣教師館と出会ったのは、平成15(2003)年のこと。建物は、昭和末期には保存運動(※15)を経て豊島区が購入し、文化財として保存されていた。平成元(1989)年1月から一般公開が始まり、開館以来毎年5月の母の日にガーデンコンサート(※16)が開催されるなど、区民のための文化的な施設としても親しまれていた。
小森さんが「『赤い鳥』を語り継ぐ、おばあちゃんのおはなし会」(※17)を始める直接的なきっかけになったのは、平成13(2001)年9月11日にアメリカで起きた同時多発テロ事件だという。長く平和活動にも取り組んできた小森さんは、激しく動揺した。
「あんなテロは本当に……近代的というかなんというか、思いもつかないようなことで人を殺すんだと、すごく怖かった。人間ってこういうことをするのかな、という……。だから、おはなし会を始めたのは『びわのみ文庫』での活動の延長線上というより、テロ事件があったころに、たまたま通りかかってここを発見したのがきっかけ。
当時は姑さんの世話で大変でね。亭主は労働運動一本だから、そちらもちゃんと支えていかなければならない。すると、何もかも嫁さんにしわ寄せがくる。姑さんの世話の合間を縫って、誰にも妨げられないで散歩できる場所は、雑司ケ谷霊園ぐらいしかないじゃない?ここを通り抜ける時に中に入れてもらって、宣教師さんが作った館なんだっていうことがわかって。神戸女学院もクリスチャンだったから、なんだか懐かしい場所だったのね」
戦争を機に日本を去るまで、宣教師マッケーレブは幼児や青年の教育活動や慈善事業に尽力した。同じく戦禍により雑司が谷を後にした小森さんが、ここを見つけた。似た志を持つふたりの、不思議な縁である。長引く姑の介護生活に疲弊していた時期とはいえ、小森さんが力尽きなかったのは、子どもたちへの強い思いがあったからだという。
「子どもを育てるということでは、すごく明るく過ごしてきたから、ややこしい家庭をさばいていけたの(笑)。心に余裕があったんでしょうね。子どもたちにはいいものを読ませなきゃ、と考えてた時にたまたまここを見つけて。そしたら書棚に『赤い鳥』が全部保存してあるっていうじゃない。『こんな素晴らしいところに、なぜ誰もいないの?』『オルガンもある、触りたい』なんて思って……なんだか、秘密のオアシスみたいな感じがしたのね」
写真提供:雑司が谷旧宣教師館(令和3年4月撮影)
青春期を過ごした女学院と、かつて親しんだ童話の世界にも似たたたずまい。懐かしさの感じられる空間に、小森さんは温かく満たされていった。そして、すぐに「童話の朗読会をしたい」と区に申し出て、スムーズに話がまとまる。
関連資料:H150503プレスリリース
おはなし会は令和2(2020)年11月に200回を数えた(※18)。12月からは旧宣教師館の大規模修繕のため休会中だ(※19)。
「家の近くにここがあって、すぐに受け入れてもらえて、すごく幸せだったと思います。『赤い鳥』がこれだけ保存してあって、まれにみるいい環境でしたし、いつも『ああ、読んでよかったな』と思える温かい雰囲気のお話を(区の方が)選んでくださるので、大変幸せです。人に恵まれて、ここに定着することができて。自分の好きなことで人さまのお役に立てれば、これに越したことはないですね。工事が終わったら、また読ませていただきたいと思います」