様々なひとが暮らす街。
ひとりひとりの日々の暮らしからそれぞれの物語が紡がれ、街の歴史を織りなしていく…
そんな物語の軌跡を区民インタビュアーがたどります。
2 忘れたくても忘れられない、故郷の戦禍
小森さんが青柳小学校(文京区。当時は小石川区)の6年生の時に太平洋戦争が勃発。総動員体制に組み込まれ、国民学校(※5)となった。
文学や音楽が花開いた文化的な時代は戦時色に塗り替えられ、やがて都立第十高等女学校に進んだ小森さんも勉強や文学から遠ざかり、3年生の折には学徒動員へと駆り立てられた。
「王子の日本化学工業の工場で防毒マスクを作っていたのね。100人ぐらいいる女学生の中でたった1人、呼気弁っていう象の鼻みたいな薄い弁を、空気の通る機械にはめて検査をしてました。もし私が間違えて穴が開いた弁を通しちゃったら、それで兵隊さんが死ぬかもしれない。すごい精神的負担でしたよね」
軍需工場に夜7時頃まで勤め、徒歩で帰宅する日々が続いた。母親は、病気で寝たきりの夫の看病に追われて疲弊し、小森さんの家族は毎日の食べ物を手に入れるのに苦労した。庭の小さなスペースでは事足りず、雑司ケ谷霊園の一角も掘り返して畑にしたという。そんな状況に追い打ちをかけるような出来事が、小森さんを襲った。
関連資料:「豊島区史 通史編二」第7編第5章第2節(国民学校体制への移行)
「(軍需)工場から帰ってきて根津山(※6)までたどり着いたら、トラックで下町の方から焼死体を運んできてね。その頃、根津山にはまだ雑木林が残っていたから、掘り返して埋めたのね。雑司ケ谷墓地の周りにも笹だらけの空き地がずいぶんとあったし、都電の電車通りの土手が続いてたあたりも掘り返して……そこにね。ちょうど埋めてるところだった。なにしろ、真っ黒けに焦げた丸太みたいなものなんだけど、匂いがするから死体だってわかるじゃない。トラックから鳶口でひっかけて降ろして、掘った穴へ突っ込んでいるところに行き会っちゃったもんだから、夢見が悪かった」
空襲(※7)では、池袋方面から焼けた。小森さんが戦後に発表した自伝的小説『陽子』では、雑司が谷あたりまで火が生きもののように地面を這ってきて、鬼子母神のけやき並木が松明のように燃えたと、克明に描かれている。
「大通りの向こうから、畳が上昇気流に乗ってくるくる回りながら飛んでくる。その火の粉が散るから、私は屋根が焼けないようにバケツで水をかけて消火しました。水道が止まってたから、井戸の水をギッコンギッコンとくんでは階段をよいこらとよじ登って、2階の物干し台からジャバッと水をまく」
小森さんの家族は戦禍を避け、知り合いの兵士の故郷である滋賀県木之本町に向かい、彼の自宅に身を寄せることになった。
「疎開先に着いたら、またすぐに軍需工場に行きました。今度は名古屋三菱航空機の工場。航空機を作る名目でそこへ疎開してきたんだけど、もう当時はまともな航空機部品なんて作っていられない状況だったと思うのね。回ってくる部品やなんかもみんな故障してたから。工場ではそういうのを〈オシャカ〉っていうんだけどね。いくら旋盤の作業がうまくなっても傷物の部品しか回ってこないんだから、何もかもオシャカなのよ。いくら働いたって、まともな飛行機ができるわけないの。
(戦争の行方?)勝つなんてちっとも思えなかった。だって、あんなに空襲を受けて勝てるわけないですよ。足元まで焼けてくるような中で、どうやって勝つことができるのって思った。もう、四分五裂の有様だったんだから。それを一般に知らせないだけであって、どこの国の隅っこでもみんながそういう目に遭ってたんだから。そこは隠しようもない現実ですからね」