様々なひとが暮らす街。
ひとりひとりの日々の暮らしからそれぞれの物語が紡がれ、街の歴史を織りなしていく…
そんな物語の軌跡を区民インタビュアーがたどります。
4 自立を求め、創作に励む日々
3年後、昭和40(1965)年に帰国した小森さんは姑の待つ雑司が谷の家に戻った。姑の世話はその後も長く続いたが、プラハでの暮らしを経て少し心が軽くなっていた。家の近くに小森さんが求めるコミュニティが相次いで生まれていたし、そこには幼少期から親しんだ文学があり、女性を尊重する連帯があったからだ。のちに運営委員長に就任する詩人会議(※12)、新日本婦人の会(※13)などである。
「チェコに行く前は姑さんの面倒を見ることで精一杯になっていたけど、帰ってきてからは自由に活動できるようになって。とにかく、人生の激動期だった。姑の世話をしながら民主的な婦人運動に関わるうちに、自分で稼ぎたい、独立したいと思うようになったのね。労働運動家の亭主は収入が少ないから、子どもの文化まではなかなか手がまわらない。子どもを自由に育てていきたいと思った時に、自分も何かしなきゃならない。そういう中で創作活動に結び付いたのは……やっぱり、足跡を残したいじゃない?」
もうひとつ、小森さんにとって大きなよりどころとなったのが、『赤い鳥』にも作品を発表していた作家・坪田譲治が西池袋の自宅に開いた童話サークル「びわのみ文庫」(※14)である。小森さんはここにも参加し、童話を執筆するようになる。
「私は幼い頃から小川未明に多くを学んだけど、童話を書くということをじかに教えていただいたのは坪田譲治さん。プラハにいた頃、坪田さんが出した童話雑誌『びわの実学校』を、母が日本から送ってくれたのね。それを読んで、帰国したら絶対に『びわのみ文庫』に入ろうと思ってた。チェコで書いた童話を持って坪田さんを訪ねたらすごく喜んでくれて、私の創作活動がまた始まりました。
私が手紙にそういうものが欲しいって書いたわけじゃないのに、母が『びわの実学校』を見つけて、送ってあげようと思ってくれたのがうれしいよね。母は、私が何を求めているかということがわかる人だったのよね。そういう意味では、私の母はすごい教育者だと思う。あの母があったから、私は生きてこれたと思います」
戦後、再び言葉を綴るようになった小森さんの創作の源は、幼い頃に母がくれた童話との出会いにある。あの頃、胸を焦がした物語が、人の心や世界を見つめる目を養った。それは時に、耐えがたい悲しみ、苦しみの中で生き抜くための力にもなったのかもしれない。
まもなく小森さんは第一作目の詩集『夜明けにむかって』(飯塚書店)を出版する。以後十数年、子育てに創作に社会活動にと充実した生活を送った。
そんなある日、娘のまどかさんが登山の訓練中に滑落、21歳の若さで黒部の山に消えた。