様々なひとが暮らす街。
ひとりひとりの日々の暮らしからそれぞれの物語が紡がれ、街の歴史を織りなしていく…
そんな物語の軌跡を区民インタビュアーがたどります。
第5回 白熊千鶴子さん (第7地区青少年育成委員会会長(※1))
小さな声に耳を傾け、子どもたちを笑顔に
豊島区の手話通訳者として活躍中の白熊千鶴子さんは、長年、地域で子どものために活動してきました。親しみやすくはつらつとした人柄で慕われ、白熊さんが学校に来ると子どもたちが笑顔で駆け寄ってきます。お腹を空かせた子、悩みを打ち明けられない子、居場所を求める子――困難を抱える子どもの生きづらさと真剣に向き合い、親や学校とは粘り強く対話してきました。昭和、平成、令和と時代が様変わりするなか、子どもを見守る活動を根づかせてきた足跡をたどります。
1 自宅を開放して子どもたちの遊び場に
白熊千鶴子さんは戦時中の昭和17(1942)年に大阪で生まれ、間もなく福井に疎開し、終戦を迎えた。小学校に上がる前に家族で上京し、文京区で少女時代を送った。
現在も暮らす南長崎に転居したのは、高校卒業後、20歳頃のこと。自宅では母親がオーダーメイドの洋品店を営んでいた。戦後、洋裁を学ぶ若い女性が急増し、当時はピーク期にあたる。家の事情で大学進学をあきらめた白熊さんは、異なる世代の女性たちが母親のもとで働くのを見ながら生活していた。
「母が裁断して、10人ぐらいの女の子の縫い子さんたちが縫うんです。通いの子がいて、うちで寝泊まりしてる子は6人ほどいたのかな。縫い子さんは、技術を身につけたら他へ仕事に行ったり、独立したりしてました」
母の客に看護師がいた関係で、白熊さんは都内の病院で働くことになり、その後、製薬会社に転職する。昭和42(1967)年頃、結婚を機に要町へ引っ越したが、長男が生まれると新しい家族とともに南長崎の実家に戻ってきた。やがて二男も生まれ、息子たちが小さいうちは母の洋裁を手伝いながら子育てに力を注いだ。
「長男は(少し離れた)目白保育園に入れてたので、椎名町小学校にあがる頃に友だちがいなかったんです。だから、1年生のときに自宅の1階を開放して、男の子でも女の子でも誰でもいいから遊びに来れるようにした。そしたら1年生から6年生までだあーっと遊びに来ました。おもちゃを勝手に使ったりして、うちの子がいなくても遊んでいくようになったんです。私は、母の仕事を手伝いながら横にいる子どもたちに目を配って、お茶を飲ませたり、おもちゃの取り合いをしてたら声をかけたりしてましたね。長男には2学期から友だちができて、ルンルンで学校に通うようになりました」
こうして、かつて縫子さんたちと暮らした家には子どもたちの声があふれるようになった。声をかけやすい距離で子どもたちを見守る生活は、のちの地域活動の原点ともいえる。
関連資料:『いくせい』第55号(2018年3月1日第7地区青少年育成委員会発行)
長男が6年生の折、白熊さんは先生の推薦でPTAの運営委員になった。
「二男がまだ学校にいたから引き受けました。おかげで息子たちはかわいがられて、先生からいろんな情報が入るし、私は〈えこひいき〉されて(笑)。『先生、こういうのはよくないよ』とか、直接、先生に意見を言えるような雰囲気をつくっていきました。ただ、よそのお母さんたちにはすごく気を遣いましたね」
白熊さんは保護者たちに気を配りながら言うべきことは学校に伝え、やがてPTA副会長になった。学校と保護者の橋渡し役として話しやすい関係性を築き、周囲の理解を得ていく険しい道のりは、この後も続く。