様々なひとが暮らす街。
ひとりひとりの日々の暮らしからそれぞれの物語が紡がれ、街の歴史を織りなしていく…
そんな物語の軌跡を区民インタビュアーがたどります。
3 困っている子どもを支援する活動へ
平成6(1994)年、白熊さんは青少年育成委員と並行して新たな活動を始めた。今度は、青少年育成委員会の活動で協力をあおいだ町会長からの推薦だった。肩書は「主任児童委員」。民生委員・児童委員(※5)として児童福祉を専門とする新しいポストで、白熊さんたちが最初の主任児童委員だった。またも、当初は風当たりが強かった。
「前からやってる方たちからしたら、名前に〈主任〉と着いてるのが気になったんだと思います。私としては、初めてなるからよくわからないし、ただ子どものことを主にやるだけだと思ってました。
不登校の子や困難を抱えた子を訪ねて、その家庭に入っていく仕事です。それから、当時『子どもの権利条約』(※6)が批准されたので、その中からいくつか抜き出して、大きな紙に書いて中学校で配らせてもらったりしました」
仕事内容は幅広い。生活や学業に困難を抱える子どもたちの相談に乗りながら支援し、必要に応じて行政機関につなぐ。そのため、白熊さんのように、子どもや親からの人望が厚く、強い福祉精神を持つ人が求められる。
白熊さんは、区や学校、警察などから安否確認を頼まれると、朝夜問わず家庭の見守りや訪問をした。「白熊さんなら」と心を開く人がいたからだ。食事の世話をできない両親を持つある子には、家のドアノブに食べ物と手紙を入れた袋をさげておき、少しずつ会話を交わすようになった。
「(小学)3年生ぐらいだったかな。お菓子を配る活動をしてたら飛んできて、『初めてこんなおいしいお菓子食べた』『白熊さん、ありがとう』って言ってくれて。涙が出るよね、本当に……」
もちろん、親とも丁寧に対話する。福祉事務所の職員を拒み、母親が娘たちを通学させないとして問題になっていたケースでは、知人との連係プレーで通園、通学を世話した。
「当時、学校に通わせない虐待が問題になってたから、『子どもを抱っこして優しくしてるのはいいけど、学校に行かせない、外に出さないのは虐待のひとつだよ』って話をした。『じゃあ学校に行かせる』ってことになって、毎朝訪ねて子どもたちを着替えさせて、ご飯も食べさせて、学校に行かせました。ただ、私1人で毎日は大変だから地域の民生委員(息子の同級生のお母さんたち)と交替でね」
逆に「家に帰りたくない」という姉弟を泊めてあげ、近所のラーメン屋に連れて行ったこともある。やがて、そうした動きが「困ったら白熊さんのところに」と地域で広まっていく。
「自分にも仕事があるけど、近所に心配なおうちがあるって聞くと、やっぱり気になってね。帰り道にちょっと寄って見てきたりしてました。必ず視線には入れて、『一緒に帰る?』とか声がけするようにはしてるんです。そういうのが向いてるというか、好きなんでしょうね」