様々なひとが暮らす街。
ひとりひとりの日々の暮らしからそれぞれの物語が紡がれ、街の歴史を織りなしていく…
そんな物語の軌跡を区民インタビュアーがたどります。
5 子どもたちの声に耳を澄ませる
白熊さんが主任児童委員になって2年がたったとき、元保護司の町会長からの推薦を受けて、保護司(※8)も並行して務めることになった。きっかけは≪大統領≫(※9)だ。
「小学校で60周年記念行事をするときに、お金を集めるためのバザーをすることになって、一軒一軒まわって100万円以上集めたの。すごいでしょう(笑)。そのお金で≪大統領≫って(作品名の)銅像を校庭に寄贈しました。そのときに認めてくださったのかな。町会長から『保護司に推薦しといたから』って電話がかかってきたんです」
保護司とは、罪を犯した人の社会復帰を地域で支えるボランティアである。白熊さんは少年院から出てきた子どもを担当し、保護観察官と協同で立ち直りをサポートした。地域の実情に通じているとはいえ、難しい役まわりだ。そこで、まずは法務省での研修から始まる。
「法務省に1週間ぐらい通って勉強します。相手が言ってることを聞き出すことが大切だから、聞き方の勉強をするんです。子どもたちをお説教するような、上から目線にならないように、とか。研修の途中で保護司の仕事が入ってきて、(研修が)残り10日ぐらいになったら、私が対象者のおうちに行く。それを月2回。2人抱えてると4回ですよね。その合間に『環境調整』っていう調査が入ってきて、近々、釈放されそうな人の家庭を見に行く。それが3、4件。忙しいときで5件ぐらい。だからもう、あっぷあっぷでしたね」
(参考:『創立九十周年記念誌 椎の木』(豊島区立椎名町小学校/椎小九十周年を祝う会協議会/令和元(1989)年11月30日発行)
少年院を出て最初につき当たる壁が、就職の問題である。ブランクがあるため仕事が見つからず社会になじめなかったり、就職できても自信が身につかなかったりする。職種の幅も狭い。白熊さんは、そんな子たちの声に耳を澄ませ、悲しみを分け合い、背中を押し続けた。白熊さんにとって、その子たちの面影は「素直な子」「真面目ないい子」「人懐こいかわいい子」だ。ただ、一人だけ、白熊さんの心に傷となって残る女の子がいる。
「20~22歳ぐらいで、とってもかわいい女の子だったの。(刑務所を出てから)彼氏ができて、赤ちゃんができてね。お母さんは巣鴨のほうで水商売をしてて、そのうち『新しいお父さんができた』って喜んでた。その子は1人暮らしをしてたんだけど、お母さんたちのいる家に住むことになったって言うから、私は『気をつけようね』って言ったの。『なんで?』って聞いてきたから、『何となく嫌な予感がする』って話しました。……人懐こい子でね。『でも、とってもいいお父さんだから』とか言ってて……本当に、かわいい子だったの」
2年後、白熊さんのもとに、彼女が命を絶ったとの知らせが届いた。保護司を務めた22年間で唯一の、「子どもを助けられなかったこと」だという。
白熊さんは保護司を定年まで勤めあげ、平成28(2016)年に法務大臣賞、30(2018)年には藍綬褒章を授与された。地域社会の岩盤をうがつように古い価値観や偏見を砕き、子どもたちの心の底に降りて行って、閉ざした心を開く。その長い道のりが、広く認められたのだ。一方、主任児童委員の仕事も、民生委員に移行して続けることを望まれたが、平成12(2000)年、任期満了で自ら幕を引いた。