としまひすとりぃ
ひと×街 ひすとりぃ

様々なひとが暮らす街。
ひとりひとりの日々の暮らしからそれぞれの物語が紡がれ、街の歴史を織りなしていく…
そんな物語の軌跡を区民インタビュアーがたどります。


第6回 小林和子さん(豊島区親子読書連絡会元会長)

第6回 小林和子さん (豊島区親子読書連絡会元会長)

「体験と共感」が親子読書の世界を拡げた半世紀

70年代、全国的にブームとなった親子読書運動。豊島区でも各図書館で展開され、昭和47(1972)年に巣鴨親子読書会を立ち上げた一人が小林和子さんです。各会の交流を図るために結成された「豊島区親子読書連絡会」の会長も務め、郷土史の掘り起こしや紙芝居づくりなど、多彩な活動を地域に根づかせてきました。あふれる知的好奇心をエネルギーに、読書活動の枠組みを超え、親と子、そして仲間たちと繰り広げた実り多い歩みを振り返ります。




1 創作意欲の基礎となった洋裁と「ワープロ」

小林和子さんは戦時中の昭和19(1944)年、東京・神田生まれ。まもなく東京大空襲で焼け出され、世田谷に移り住み終戦を迎えた。現在、暮らしている大塚に引っ越したのは、終戦後の雰囲気が街に色濃く残る頃だった。
「昭和24年ぐらいに大塚に来ました。うちもそうでしたけど、側壁がトタンになっているようなおうちが、まだたくさんありました。焼け出されたような人が、都心からちょっと離れたところへ来て、住みつき始めるっていう場所だったのかもしれませんね。
昔の廃兵院(※1)のあたりとか、土に触って遊ぶところはいっぱいありましたね。まめ公園(巣鴨公園の地元での愛称)にはもうブランコもあって。巣鴨公園はあとでうちの子どもたちが遊ぶようになります」

4人きょうだいの末っ子の小林さんは、兄姉たちと年が離れていたことから、子どもの頃は友だちと遊ぶことが多かった。のちに小林さんが絵本の題材にする巣鴨公園も遊び場のひとつだ。清和小学校を卒業後は、大塚中学校へ入学。勉強も好きなほうで、高校受験を控えた時期には兄の家庭教師のもと、さらに学業に打ち込んだ。

※1 廃兵院 明治41(1908)年巣鴨町に移転。日露戦争の戦傷者のための療養施設。後に傷兵院と改称され、昭和11(1936)年、小田原へ移転。昭和17(1942)年、跡地の一部に「巣鴨公園」(愛称まめ公園)が造られた。

竹早高等学校(文京区)を卒業後は、18歳で三井物産に入社する。当時は洋裁学校がさかんで、若い女性が洋裁教室へ行くのがブームのようになっていたという。小林さんも、仕事終わりに夜間の洋裁学校へ1年間通い、忙しくも充実した日々を送るようになる。
「うちにミシンがありましたから、母がなんやかんやと縫ってくれてましたね。母は和裁もちゃんと習ったらしくて、人さまのものも縫ってました。だから今度は自分で縫おうと思ってたんでしょうね。池袋にあったキンカ堂(※2)で土曜日に布を買って、日曜日に縫って、月曜日に会社へ着てくっていう、綱渡りみたいなことをしてました。作るのがおもしろかったというか、楽しかったんですよね」

社会人生活が5年ほど経ち、24歳で結婚し、長女の出産を機に退職した。その後、ほぼ2年おきに次女、長男と出産し、しばらくは主婦として育児、家事に専念する。子どもたちのものをつくるのにも、洋裁の腕がおおいに役立った。

長女が小学校に入ってからは、PTAで広報誌などの制作をおもに担当した。まだワープロがない時代で、手書きの原稿を製版して印刷する「リソグラフ」でつくった。

※2 キンカ堂(1951-2010) 池袋駅東口にあった池袋店では、布地や毛糸などの手芸関連品や衣料品などを低価格で豊富に扱い広く親しまれていた。

長男が小学校に入学する頃には再就職し、のちにフルタイムで働くようになる。三井物産時代の上司に偶然再会し、上司が務めていた別の会社に誘われたのだ。業務ではワープロ、パソコンをよく使った。
「ワープロで一大変革ですよね。活字になるわけですから。PTA活動にも親子読書会にもずいぶん役に立ちました」

小林さんは、平成4(1992)年11月に開館した巣鴨社会教育会館(現在の巣鴨地域文化創造館)の愛称『中山道 待夢(たいむ)』(※3)の命名賞金で、当時10万円もしたワープロを購入。勉強も仕事も文章をつくることも好きな小林さんにとって、ワープロは言葉の世界を広げてくれる魅惑のツールだった。やがて創作欲もかきたて、人生を豊かにする相棒となっていく。

※3 関連資料:H041111プレスリリース

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