としまひすとりぃ
ひと×街 ひすとりぃ

様々なひとが暮らす街。
ひとりひとりの日々の暮らしからそれぞれの物語が紡がれ、街の歴史を織りなしていく…
そんな物語の軌跡を区民インタビュアーがたどります。


第8回 植野正与さん(「南長崎はらっぱ広場を育てる会」会計)、山本ナミエさん(「南長崎はらっぱ公園」副会長)

第8回 植野正与さん (左「南長崎はらっぱ公園を育てる会」会計)

   山本ナミエさん (右「南長崎はらっぱ公園を育てる会」副会長)

手を取り合い、思い出の公園を一緒に育てる

広い空に柔らかな草地、土の匂い――。昭和に子ども時代を過ごした人にとって、思い切り駆けまわり、日暮れまで遊んだ「原っぱ」は原風景ではないでしょうか。「南長崎はらっぱ公園」(※1)は、地元の人たちがそんな自由な場を目指して、手作りで完成させた公園。時代の変化と未来を見据えて、災害用の設備や自然再生構想などを盛り込んでいるのも特徴です。ノスタルジックなだけではない、新しい公園はどのようにしてできたのでしょう。仲間として一緒にここを育ててきた植野正与さん、山本ナミエさんに、公園の前史から語っていただきました。




※1 南長崎はらっぱ公園(豊島区南長崎6-1-20):豊島プール解体による大規模な公園改修に合わせて、平成22(2010)年8月1日付で「西椎名町公園」から「南長崎はらっぱ公園」に名称変更となる。「南長崎はらっぱ公園」の開園式は平成22(2010)年7月31日、ビオトープの完成式は平成23(2011)年4月16日におこなわれた。

1 豊島プール(※2)と西椎名町公園(※3)が前身

目黒区で生まれ育った植野正与さんが、いまの「南長崎はらっぱ公園(以下「はらっぱ公園」)」の目の前の家に引っ越してきたのは昭和45(1970)年のこと。大学卒業後に結婚したお相手が住んでいた実家だ。以来、夫の家族たちと同じ敷地内でにぎやかに暮らしてきた。
娘が生まれると、自宅に子どもたちの声があふれるようになる。植野さんは「自宅塾」を皮切りに子どもたちに勉強を教え始め、長く仕事とした。
「35歳ごろに会社を辞めて6か月ぐらいして、娘の友だちやらを集めて自宅で英語と数学を教えるようになったんです。小さく塾をやり始めたんですね。娘が中学に入ってからは池袋にある大きな英語塾でしばらく働いて、50歳ぐらいで府中のほうに物件を借りて、自分の塾を持ちました。そこで10年ぐらい仕事したかしら」

※2 豊島プール(豊島区南長崎6-1-20):昭和40(1965)年7月11日に旧西椎名町公園内に開設されたが、老朽化のため平成12(2000)年度より休止、平成21(2009)年4月1日付で廃止となった。
「豊島プール」(昭和60年撮影)

関連資料:H111122・H120707文教委員会資料H210226区民厚生委員会資料

※3 西椎名町公園(豊島区南長崎6-1-20):昭和26(1951)年10月30日に東京都立西椎名町公園(当時の地名は椎名町8丁目)が開園。昭和27(1952)年4月1日に東京都から豊島区へ土地が譲渡され、昭和38(1963)年7月18日に豊島区立西椎名町公園として開園。平成22(2010)年8月1日付で豊島区立南長崎はらっぱ公園に名称変更となる。


60歳ごろ、義母の介護のため塾を手放した。やがて介護を終え、地域のことに関わるようになったときに、自宅で始めた塾や、家の前にあった「豊島プール」、プールに隣接する「西椎名町公園」で築いた人間関係が再び回り始める。
「私が教えていた子どもさんが娘の同級生ぐらいですから、みなさん割と近くにいて、覚えていてくださるかたもいて。ここに嫁に来てから、娘が公園で遊ぶからそこで人間関係ができたんです。公園でわーっと遊んで、うちにもみんなでわーっと来る。そうすると泥だらけになっちゃうんです。よく掃除機を持ってかけて回ってました(笑)。娘もそうだし、どのおうちもそういう状態で、みんながよくしてくれて。とうもろこしをふかしたり、おやつをくれたりして、みんないいお母さんでしたよ」

植野さんより3歳年下の山本ナミエさんは昭和25(1950)年に南長崎で生まれ、地元で育った。中学2年生のとき、東京オリンピックに際してできた豊島プール(※4)には深い思い出がある。
「2年のとき、校内で3人しか当たらない水泳競技の鑑賞券が当たって観に行ったんです。それが強い思い出になっていて、水泳の選手になりたいと思ったぐらい。でも私のころは十中(旧第十中学校)(※5)にも、高校にもプールがなかった。それで高校では演劇部に入って、今度は女優になりたいと思ったの(笑)。やはり好きこそものの上手なれで、先輩にもすごく認められて、最初から主役を任せてもらえたぐらい。3年間すごく楽しかったんですけど、担任の先生が厳しくて。私が女優になりますって言ったら、『あなた何言ってるの! そんなこと言ったら大学に行けないわよ』って怒られて」

結局、山本さんは担任の勧めを受け入れて大学の国文科へ進み、国語の教師になる道を選ぶ。ただ、大学ではアナウンサーという新たな夢も抱き、当時話題の同棲を経験した。
「大学に入るとどうしてもアナウンサーにもなりたいと思って(笑)、放送部に入ったら当時の夫がディスクジョッキーをしていました。大学1年の文化祭で知り合って、2年生の6月に私が家出したんです。7、8月と親に連絡しなかったら、捜索願いが出ちゃいました」

周囲の説得もあり、お互いの両親の許しを得て学生結婚をし学業をまっとうし、卒業後は母校の高校で25年、教壇に立った。やがて、両親が相次いで重病で倒れ、自宅で10年間、介護することになったのだ。教員の仕事を手放すことになったが、母校の高校の同窓会の仕事は引き続き行った。
「同窓会に出るときはヘルパーさんをお願いしてね。とてもいいヘルパーさんで、『あなたが働けないなんておかしいから、やりたいことやりなさい』と言って、私が安心して学校に行かれるような状況をつくってくれましたね」

両親を看取ってから10年後、北海道でひとり暮らしをしていた義母が認知症だとわかり、すぐに引き取って10年ほど介護をした。当時、山本さんは介護ヘルパーの資格を活かしてNPOで活動していたことから、地元で民生委員にスカウトされる。これがはらっぱ公園での活動につながっていく。

※4 関連資料:旧豊島区広報186号1面 昭和40(1965年)7月20日発行(区営豊島プール公開)

※5 第十中学校(豊島区千早4-8-19):昭和22(1947)年4月1日に開校。長崎中学校・千早中学校との3校統合(明豊中学校)により平成16(2004)年3月31日に閉校した。
在りし日の第十中学校
参考資料:長崎中学校・第十中学校・千早中学校統合関連資料(H150627・H151006文教委員会資料)、旧第十中学校跡地の活用について(H290704総務委員会資料
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