様々なひとが暮らす街。
ひとりひとりの日々の暮らしからそれぞれの物語が紡がれ、街の歴史を織りなしていく…
そんな物語の軌跡を区民インタビュアーがたどります。
4 「私たちも公園と一緒に育ってきた」
はらっぱ公園に関わって10年あまり。植野さん、山本さんは仕事や介護の経験など、似た道のりを歩んできた。精いっぱいに取り組んだ子育てや仕事、介護で得た知識や人間関係を公園の活動につなげているという点でも共通する。
結婚を機に南長崎に移り住んだ植野さんにとっては、かつての西椎名町公園(※14)は、いまの原点ともいえる場所。公園を介したお母さんたちとの交流も続いているし、娘さんの友だちを自宅の塾で教えていたことも強みになっているようだ。 「教えることは割と好きだったわね。娘の小学校のときの『ふみの会』というお母さんたちの集まりは、いまでも会合があるの。離れていったかたも、越したかたも、亡くなったかたもあったりして6人ぐらいになっちゃったけど。コロナの前は2、3か月に1回ぐらいは駅前の飲食店で集まりを持っていたんですよ。だから本当に、ここに住んでよかったと思います」
植野さんは、いまや立派な大人になった「かつての子どもたち」に、まちの今後を担う存在として期待を寄せている。地域の祭りである「五若神輿」(※15)を総出で手伝うなど結束力があり、地域に活気を伝えてくれているという。
高校教師だった山本さんも、植野さんのように塾で教え、家庭教師をしていたこともある。子どもから大人まで目を配り、声をかけるいまの活動につながっている。
「植野さんは英語を教えていらして、私も国語を教えていて。人に対して何かを与えるというか、何かをやるというのはきっと当たり前のようにできるんです」
さらに山本さんは、介護経験を活かした仕事や民生委員としての働き、少女時代からの情熱的な歩みも存分に発揮している。
「せっかく親の介護をしたので、高齢者のほうを勉強しようかなと思って、ヘルパーの資格を取ってNPOに10年間いたんです。その関係で麻布のほうでサロンをやっていましたので、民生委員のかたから『よそで活躍するんだったら地元で活躍してよ』って言われて、民生委員を仰せつかったんです。
植野さんも会計をがっちり支えてくれているし、私もアナウンサーになりたいと思っていたのをイベントのときにはMCをさせていただいて活かしてみたり。私たちも公園と一緒に育ってきたんです」