様々なひとが暮らす街。
ひとりひとりの日々の暮らしからそれぞれの物語が紡がれ、街の歴史を織りなしていく…
そんな物語の軌跡を区民インタビュアーがたどります。
2 はじまりは地域有志による防災活動
はらっぱ公園の前身である豊島プールと西椎名町公園ができる前、その広い土地は「8丁目グラウンド」(※6)と呼ばれていた。山本さんの記憶では、砂利があるだけの場所。野球をする子がいれば、山本さんのように砂利の山を上ったり下りたりして遊ぶ子もいたという。
児童向けの西椎名町公園ができてからは、夏休みに幻灯会(映画上映)やラジオ体操に大勢の子どもが集まった。植野さんも、娘さんが幻灯会に行った記憶があるそうだ。東京オリンピックのために豊島プールができたのち、幼児用の浅いプール(※7)もできたが、平成期には利用者が減り続け、平成12(2000)年に利用を中止。数年後、放置されている間に壁面を埋め尽くしてしまった落書きを消そうという声が上がり始めた。南長崎4~6丁目有志からなる「南長崎4・5・6丁目防災まちづくりの会」(※8)だ。落書きを消す作業(※9)には山本さんも参加した。
「落書き消しから始まったわよね。まちづくりの会で、落書きとか道路にはみ出ている物とかを片づける作業をしたんです。みんなで街歩きをしながら写真を撮って、マップに落としてやりました。各町会のおもだった人に声をかけて、6丁目のかたが音頭を取って始めたんです」
プールには雨水も溜まり、防犯上の懸念もあった。そこで、プールを解体して、隣接する西椎名町公園と一体化させ、防災利用もできる公園にしてはどうか――そんな要望がまとまり、区へ働きかけた。新しい公園をつくるための会は、こうして動き出した。やがて「防災まちづくりの会」がなくなり、ほぼ同じメンバーからなる公園づくりのグループは検討会を続け、予算や設計を話し合うためのワークショップを重ねた。
平成21(2009)年にプールが解体され、翌22(2010)年、「南長崎はらっぱ公園」が完成した。検討会は「南長崎はらっぱ公園を育てる会」(※10)と名称を変え、いまに至っている。植野さんは新しい公園の名称を決めるころに「育てる会」に加わった。
「名称は、『7丁目公園』にしようとかいろんな案が出たの。『花壇のある桜公園』にして何か木を植えようとか。でも、『きれいな公園はあちこちにあるけど、何もない原っぱっていまの子どもには必要なんじゃないか』ということで、はらっぱ公園になったんです。だから、初めから何かを建てようとか、いろんなものをつくろうっていうのはなかったんです」
山本さんは、民生委員として地域を深く知る必要からはらっぱ公園のイベントに参加した折に「育てる会」に加わった。
「イベントに参加したときに、ある方が私の民生委員としての動きを見ていたのか、『あなた、ここに入りなさい』って言ってくれて。それから10年間、植野さんがこういう性格のね(笑)、――本当に感じのいいかたですから、『山本さん、こうやる?』『うん』って言って、一緒にスーパーマーケットに買い物に行ったり、豚汁の材料を買いに行ったり」
こうして、植野さんは「育てる会」の会計、山本さんは副会長として、ともに歩むことになった。
関連資料:旧豊島区広報177号2頁上 昭和39(1964)年9月15日発行(新住居表示11月1日スタート~椎名町は「南長崎」に~)
関連資料: H111122・H120707文教委員会資料
関連資料:H220714都市整備委員会資料