様々なひとが暮らす街。
ひとりひとりの日々の暮らしからそれぞれの物語が紡がれ、街の歴史を織りなしていく…
そんな物語の軌跡を区民インタビュアーがたどります。
第9回 本橋香里さん (「藤香想」店主)
「みんなが集う家」で奏でるこのまちの未来
要町の閑静な住宅地にある「藤香想」は、ほっとくつろげる古民家カフェ。季節のうつろいとともに表情を変える庭の草木、羽根を休めに集まってくるかわいい鳥たちも、ここの魅力です。店主の本橋香里さんは、生まれ育った環境も意識しながら、あふれる好奇心を活かして自分の道を歩んできました。住み慣れたまちに「みんなの場」をつくった本橋さんの想いを、じっくりと語ってもらいました。
1 早くからピアノに親しみ、音楽の道へ
昭和43(1968)年、要町に生まれた本橋香里さんは、曾祖母・祖父母・両親・弟の7人が暮らす大家族で育った。家には普段から親せきやご近所さんが出入りし、縁側では曾祖母が『いなばのしろうさぎ』などのお話を聞かせてくれる――そんな「昔ながらの」環境で、のびのびと成長する。
本橋家は先祖代々「豊島長崎の富士塚」(※1)を守る富士講の先達(指導者)を務め、古くから近隣住民を束ねてきた。幼いころの本橋さんは、野球や缶蹴りなど体を動かす遊びも大好きな活発な少女。時には富士塚に勝手に登って祖父から注意されたりもしたという。
同時に、3歳からピアノを習っていたこともあり、進路を意識し始める中学生のころには「音楽の先生」の夢がふくらんでいた。
「当時はまだ大人がどういう仕事をしてるかよくわからないので、身近で見た職業というと学校の先生だったんですね。陸上部でしたからほぼ運動ざんまいで、周りからも『先生だったら、体育の先生でしょ?』って言われたんだけれども、『(夢は)体育の先生じゃない』と思ってました。そんななかで、中学校のときの音楽の先生の授業がとても楽しかったんです。ピアノで現代の曲もばんばん弾いちゃうし、楽譜もさっと自分で書いちゃうし、私の中にすごく刺激として入ってきて、『こんな音楽ができるんだったら、学校の音楽の授業はもっと変わるんじゃないのかな』って」
関連資料:既刊区史(通史編1)長崎富士塚
関連映像:平成ぐらふぃっくす 農村の面影が残る街 豊島区長崎、平成ぐらふぃっくす としまの文化財 ~第4集~、わが街ひすとりぃ 第1回高松(現地ロケ編)
目標を音楽の教師に定めた本橋さんは、千川中学校を卒業後、国立音楽大学付属音楽高等学校に入学。専門的に音楽を学び始め、ハイレベルな授業に苦戦しながらも、やがて念願の国立音楽大学教育学部へと進んだ。さらに技術や知識を積む一方で、キャンパスライフでは新たな世界が開けていく。
「大学生になって自分の活動範囲がものすごく広がったので、ほかからの刺激がいっぱいあったんですよね。『自分はなんて物を知らなかったんだろう』『こんなにいろいろなことがあるじゃないか』『自分が生きてるところなんて、本当に針の先くらいしかないんだな』って目覚めた。自分がいたところは狭かったんだな、って感じたんです」
海外へも目が向くようになった本橋さんは、違う文化に触れるため、夏休みを利用してアメリカへ2度、留学。カルチャーショックを受け、心揺れたまま帰国する。