様々なひとが暮らす街。
ひとりひとりの日々の暮らしからそれぞれの物語が紡がれ、街の歴史を織りなしていく…
そんな物語の軌跡を区民インタビュアーがたどります。
2 結婚、出産を経て今後を模索し始める
時代はバブル真っ盛り。本橋さんは「花の女子大生」を謳歌しながら厳しいカリキュラムをまっとうし、教員免許も取得した。とはいえ、当時は留学経験から受けた刺激が強く、大学卒業後は大手旅行会社に就職する。音大を出て旅行会社に入った人は前代未聞だと言われたそうだ。
その後、人生は急展開する。23歳で結婚し、夫のアメリカ転勤について行くことになったのだ。1年後に帰国するとまもなく退職し、26歳で出産。折しもバブルが崩壊し、世の中がめまぐるしく動いていた時期だった。
「行きはビジネスクラスで行けたのに、帰りはエコノミーで帰された。それだけ急激に世の中が変わったときでした。〈イケイケ〉って言葉が合ってるかどうかわかんないですけど(笑)、当時は仕事もして、結婚もして、家庭もきちんとできて、っていう憧れの女性像が自分の中にあって、『何でもできる!』って思ってたんでしょうね。……そう思っていたらアメリカ転勤の話が来ちゃったんで、どうしましょうって悩みましたけど、(転勤先が)留学で行った町だったから縁を感じたんです。まだ何でもできると思っている時代なので、何とかなるだろう、という感じだったんでしょうね」
仕事も恋愛も結婚生活も楽しむ――「バリキャリ」という言葉が躍っていた時代でも、社会も制度も追いついていなかった(※2)。1986(昭和61)年から施行された「男女雇用機会均等法」も名ばかりのもので、結婚・出産・育児にまつわる退職や解雇に際して女性を差別しないとした規定はあくまでも努力義務であり、1997(平成9)年改正で禁止事項、2006(平成18)年改正でようやく男性も含めた性別による差別が禁止となった。
「まだまだできる」と思っていた本橋さんだったが、帰国後は正社員雇用から外れ、出産を機に退職することになった。
しばらくは家事・育児に専念したが、いつしか持ち前の好奇心と大学時代から保ち続けていた情熱がわきあがってくる。転機があるたび、自ら道を切り拓くための足がかりをつくる、本橋さんの原動力だ。まずは、子育てにも活かせると考えて独学で保育士資格試験に挑み、29歳の時に免許を取得。これはのちに仕事につながった。さらに、京都転勤があったので、その地で出来ることを考えたとき、かねてより関心があった陶芸を習うことになり、奈良の窯元で本格的に取り組んだ。
「結構、没頭しましたね。またこれも、ぼーっとしてられない自分がそこにいたんだと思うんです。素晴らしい環境で教えていただいて、東京に帰ってきてからカルチャーセンターに行ったりもしたんですけど、向こうでのおもしろさに比べたらもう全然で……。なんとなくモチベーションダウンして辞めちゃいましたけど、お別れに先生からもらってきた作品は大切にとってあります。たまに日展に作品を展示しに東京にいらっしゃるので、そのときはお会いしますね」
東京に戻ってきたのは33歳のとき。本橋さんは、父・勇さんにある決意を告げる。