様々なひとが暮らす街。
ひとりひとりの日々の暮らしからそれぞれの物語が紡がれ、街の歴史を織りなしていく…
そんな物語の軌跡を区民インタビュアーがたどります。
3 自分の中に息づいていた〈音楽〉との再会
再び転勤で東京に戻った本橋さんは、家で代々継いできた「冨士元囃子(ふじもとばやし)」(※3)を教えてほしいと勇さんに申し出た。冨士元囃子とは、明治後期から長崎神社と浅間神社の祭礼に奉納されてきたお囃子で、本橋家では長男が「冨士元囃子連中」を継ぐことになっている。
「あるとき目覚めたんですよね。それで父に『やりたいな』って言った。もともとお祭りが好きなのと、こういう家でずっと身近にあったので、30歳ぐらいのときに民族芸能、古典をやってみたいなって思うようになったんです。子どもの頃に『私もやりたい』って言えばだめとは言われなかったと思うんですけど、その頃は「お囃子をやりたい」という感覚で見ていなかったんでしょうね」
関連資料:H141008プレスリリース
関連映像:平成ぐらふぃっくす としまの文化財 ~第3集~、平成ぐらふぃっくす 文化の風薫るまち 第2集
伝統芸能である冨士元囃子は口伝(くでん)であり、継承者から直接、技などを習う。今でこそ動画や音源が便利なツールとなっているが、父の勇さんは曾祖父の話をもっと聞いておけば……と悔やんでいた。そんな勇さんの背中を見て育ったせいか、本橋さんはこまめに録画・録音しながら練習を重ねている。現在は本橋さんのほかに産休中の人を含めて5、6人の女性が冨士元囃子連中にいて、本橋さんはメンバーのひとり。
「口伝で、楽譜があるわけではない。そんなに簡単な楽器ではないので、後継者がなかなかいなかったんです。でも最近、高校生くらいになる女の子が上手になって、一緒に演奏しています。あとは、ほかのメンバーのお子さんたちが練習しています」
一方、家庭でも大きな変化が訪れる。東京に戻ってから6年ほど経ったころに離婚し、生計を立てるため、本橋さんは宅地建物取引士の資格を取るなどして職を探したが、40歳を過ぎてからの就職活動は難航した。が、かつて取得した保育士の免許が役に立ち、保育園で正規職員の仕事が見つかった。
やがて生活も落ち着いたが、しばらくすると「私の本当にやりたいことは何なのか」にふつふつと疑問がわいてくる。
「保育の仕事をしながら、『自分の人生、これからどうするか』と考え始めたわけですね。どうやったら人生を充実させて生きていけるか。でも、安定を壊していいのかと自分に言い聞かせながら。保育士としてやってくということが、決して自分のなかで『いいな、楽しいな』と、充実してるというわけではなかったんですよね。私がしたいことはここじゃない、と思ったんです」
主体的な人生を模索するうち、ひとつの答えにたどり着く。
「最終的にしたいこととして戻ってきたのが、音楽だったんですよね。身近に、もっと音楽ができる環境はないかな、っていうところが最初のきっかけだったと思います」
こうして本橋さんは、かつて四世代が同居した実家のようにみんなが集い、音楽が楽しめる場をつくろうと、カフェの起業を決意する。