としまひすとりぃ
ひと×街 ひすとりぃ

様々なひとが暮らす街。
ひとりひとりの日々の暮らしからそれぞれの物語が紡がれ、街の歴史を織りなしていく…
そんな物語の軌跡を区民インタビュアーがたどります。


第10回 栗林知絵子さん(「豊島子どもWAKUWAKUネットワーク」理事長

第10回 栗林知絵子さん (「豊島子どもWAKUWAKUネットワーク」理事長)

「子どもを真ん中」につながる地域づくりを

困難を抱える子どもたちの未来を明るく照らすため、誰でも参加できるゆるやかなつながりをつくりたい――そんな願いから、「豊島子どもWAKUWAKUネットワーク」を立ち上げた栗林知絵子さん。地域活動の原点である「池袋本町プレーパーク」で出会った子どもたちの支援を皮切りに、全国で先駆的に始めた子ども食堂などさまざまな取り組みを展開。コロナ禍では行政との協働もさらに発展させてきました。誰も排除されない居場所づくりの秘訣は? 次世代につなげるには? 20年の活動を振り返ってもらいました。




1 「楽しそうな大人たち」を見て育つ

栗林知絵子さんの出身地は、母の実家がある新潟県長岡市。東大阪市で生まれてすぐに祖父が亡くなり、祖母たち親族が営む鉄工所を支えるために両親と転居した。

12人もの大家族で育った栗林さんの幼少期は、工場に勤める大人たちにも囲まれてにぎやかな日々だった。家に帰ればどこかに大人がいて、声をかけてくれる。家と隣接する工場、片道40分の通学路、時間を忘れて遊んだ海、日本海に沈む大きな夕日――日常を楽しく過ごした風景は、今も鮮やかに思い浮かぶ。

小学4年生のときに長岡市内に引っ越し、家族は両親と自分の3人になった。当初は寂しさを感じたものの、合唱団で生涯の友人にも出会い、栗林さんは新たな居場所をつくっていく。中学2年から祖母の勧めで通い始めた一風変わった塾では、またおもしろい大人たちと出会う。「先生」は、2人の高校生と酒屋の店主。勉強よりも3人とのおしゃべりと、「掃除」と称してホウキとちり取りを使ってプレーする野球が記憶に残っている。
「子どもの頃はピアノをやっていて、音楽の勉強をするなかで成長したので、なんとなく音楽に携わることをしたいなっていうのはありました。ただ、すごくなりたいものはなかったですね。何かになりたいというよりは、早く大人になりたいなっていうのはありました。『大人って楽しそうだな』ってよく思ってましたね」

「楽しそうな大人たち」は大切な思い出であるだけでなく、自然と栗林さんのロールモデルになっていく。

工業高等専門学校を卒業後は、恩師の勧めで東京の製薬会社に就職。巣鴨にある会社の寮に引っ越し、試薬の臨床データを取る「学術営業」として8年間務めた。平成6(1994)年、27歳で結婚すると、池袋にある夫の実家で義理の弟・両親との同居生活が始まる。翌年には退社して長男を出産、その2年後には次男が生まれた。家族は7人の大所帯となった。

地域活動に関わるきっかけは、20年前、池袋本町プレーパーク(※1)のワークショップ(※2)に参加したことだった。
「自然があるところで自分の子どもを遊ばせたいと思って、区が開いたワークショップに参加したんです。そしたら、場所も決まってて、全て準備が出来上がってるようなところで。私の友だちも参加したんですけど、みんな辞めてっちゃったんですね。当時は『プレーパーク』とはいっても地面は砂利が多く、日陰がほとんどありませんでした。まわりに木はあるけれども、そばにフェンスのすぐ際でなかなかその木を使って遊べない。プレーリーダーも、水曜と金曜の14~17時に時給800円の有償ボランティアだったので、多くの人に登録してもらいシフトを組むという、綱渡りの運営でしたね」

ワークショップに参加した翌年、栗林さんは「池袋本町プレーパークの会」の代表となる(※3)。経験に乏しかったが、地域の先輩方の推薦で担ぎ上げられる格好だった。

※1 池袋本町プレーパーク:準備段階から区民が参加して理想の遊び場を実現するための話し合いを重ね、2003(平成15)年8月に本町防災広場(池袋本町1-42)内に豊島区初のプレーパーク(冒険遊び場)が開設された。同広場内に池袋本町小学校・池袋中学校の校舎を整備するため、2014(平成26)年3月でいったん終了したが、2014(平成26)年11月に常設プレーパークとして池袋本町公園(池袋本町1-27-1)内で再開した。

※2 関連資料::プレーパーク事業について(H140702・H141004・H150225・H150626厚生委員会資料)H140827プレスリリース

※3 関連資料:H150822プレスリリース

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