様々なひとが暮らす街。
ひとりひとりの日々の暮らしからそれぞれの物語が紡がれ、街の歴史を織りなしていく…
そんな物語の軌跡を区民インタビュアーがたどります。
3 子どもを笑って見守る地域をめざして
2011(平成23)年のこと。栗林さんは、プレーパークで知り合った中学3年生のT君を気にかけていた。ひとり親家庭で育ったT君は、高校に進学できないかもしれないという。そこで栗林さんは、自宅での受験サポートをT君に買って出た。
「当時、プレーパークに関わる数名の社会人プレーリーダー運営の人たちと、存続したいとお願いしたのですが、行政からは『場所がないので存続はできない』って言われてたんです。その人たちに、中学生のT君の受験サポートについて相談したら『プレーパークの存続が大変なときに、また別の厄介なことを持ち込まないでほしい』と言われました。そこで、学生プレーリーダーに彼の受験サポートの相談をしたところ賛同してくれて我が家でT君の高校受験サポートがスタートしました。さらに、T君を冬休みに地域の塾につなげ模擬試験を受けるために、1000円のカンパを集めました。約100名の地域の方からカンパが集まり、T君は塾の進路相談を経て都立高校に合格しました。合格後に「カンパを集めたからには、受験報告会を開こう!」ということになり、カンパしてくださった地域の方に集まっていただき、不登校・引きこもり研究所を主宰する天野敬子さんと「豊島子どもWAKUWAKUネットワーク(以下「WAKUWAKU」)」の設立(※4)もよびかけました。その後、WAKUWAKU設立でつながったみなさんが、プレーパークのことを気にかけてくれて、閉鎖の事情を話したら、『あそこは大事な子どもの居場所よ!』って、いろんなところに声をかけに行ってくださったんです」
その流れで、現在のプレーパークの地主から売却の相談を受けて区が購入する話にまとまったのだ。平成25年(2013)に、WAKUWAKUはNPO認証を取得し、平成26年(2014)に区が「池袋本町プレーパーク」を新たな場所で再開する際には事業を受託することになった(※5)。
誰でも親しみやすい「WAKUWAKU」というネーミングの由来には、栗林さんたちの願いがこもっている。
「子どもって、いきいきした楽しそうな大人を見て、早く大人になりたいなって思うから。今って、おとなしくてものわかりのいい子が〈いい子〉とされてしまうんだけど、そうじゃない。子どもの、危なくてうるさくて汚いところを、笑って見守られるような社会にしたいんです。そういう社会だったら、子どもの声がうるさいとか言わないんじゃないかな。そこで育った子がそういう世界をつくるだろうな、とも思いますね」
WAKUWAKUでは、(1)遊びサポート事業(池袋本町プレーパーク)、(2)学びサポート事業(無料学習支援)、(3)暮らしサポート事業、(4)おせっかい事業の4つの事業をおもに展開している。(3)では、「要町あさやけ子ども食堂」(※6)の取り組みがTVでも取り上げられ、大反響があった。コロナ禍までは啓発活動のため全国を飛び回っていたほどだ。
「子ども食堂をはじめて間もない頃、東京都に助成金の提案をしてくれた人がいたんです。それで30万円ぐらいの助成を受けて、子ども食堂サミットを開催して、おせっかいバッジを作りました。おせっかいな人って本当はたくさんいるけど、〈おせっかいしていい空気〉は生まれにくい。だから、困ってる人が声をかけやすいようにバッジを作ったんです。これを付けている人は危ない人じゃない、とわかるように。
当初、行政からは『子どもにご飯を食べさせるのは親がやることだ』って言われましたけど、そういう意識がこの10年でずいぶんと――子ども食堂とかの取り組みが広がる中で、地域の子どもを地域みんなで支えていくんだっていう方に、ずいぶん前進したと思います」
(4)のおせっかい事業は現在住まいサポートや職業の相談や紹介もおこなう仕事サポートも展開しているが、子ども食堂や学習支援から派生した取り組みだ。
「やっぱり、世の中で一番弱い立場って子どもだと思うから、子どもを真ん中に新たな仕組みとかできるとユニバーサルなまちづくりになると思いますね。」
民生委員も務め、ひとり暮らしの高齢者の生活にも目を配る栗林さんだが、基本は子どもが不安なく成長できる地域の実現。未来をつくるのは、そこで育つ子どもたちだからだ。
関連映像:わが街ひすとりぃ 第14回要町(現地ロケ編)
参考資料:H271221プレスリリース