藤岡市/藤岡デジタル博物館

平井城イメージ

中世関東の要、平井城と関東管領上杉氏の盛衰

室町時代、鎌倉府で関東の統治にあたった鎌倉公方の補佐役として大きな権勢を振るったのが関東管領です。足利将軍家と縁の深い上杉氏が関東管領を務めることが多く、上杉氏の諸流が関東の各地で繁栄します。なかでも山内上杉氏は宗家として大きな力をもち、関東管領を多く輩出しました。山内上杉氏は上野国守護として上野国を地盤としており、その拠点となったのが平井城です。

平井城と関東管領の歴史

上野国を地盤とする山内上杉氏は、地元上野国の武士たちにとっての主という面があります。関東管領の拠点・平井城を守るため活躍した小林氏も、こうした上野国武士のありかたのひとつを物語ります。しかし小田原北条氏の攻勢に上野国武士も北条氏に与するものも多く、憲当は平井城を出て越後の長尾景虎のもとへ逃れ、さらに関東管領職を景虎へ譲ることになります。

平井城と平井金山城

北流する鮎川の左岸・河岸段丘上に築かれた平城です。段丘の崖面に接して東西100m・南北90mほどの本丸をもち、本丸の西から北方向にかけ、二の丸・三の丸・ささ郭・帯郭・総郭などを配しています。発掘調査で16世紀のなかばに大きな拡張・改修工事が行われたことが判明、これは上杉憲当の平井城退去の契機となった北条氏康の平井城攻めの時期に重なります。憲当退去後の平井城は北条氏の拠点となり、その後長尾景虎と北条氏との抗争のなかで廃城となったと伝わります。築城については、後世の資料に15世紀であることを物語るものがあり、史実の解明が待たれています。 平井城の西には自然の要害である丘陵が迫っており、平井金山城はその丘陵の頂部・尾根に築かれた山城です。平井城と平井金山城との高低差は190mあまり、平井金山城の南側は急峻で、この方面からの攻略は難しそうです。発掘調査で戦国時代の石垣や堀割が確認され、それらの状況、また東方麓の平井城から登りやすい構造から、平井金山城は平井城の詰城(最終的な拠点)として築かれたと考えられています。

小林家文書

小林家は鎌倉時代の終わりから室町時代の初めにかけて、上野国大塚郷(群馬県藤岡市上大塚・中大塚・下大塚) 周辺の地頭であった武士です。中世には関東管領家、そして甲斐武田家といった東国の伝統的勢力と行動をともにし、戦国時代末には豊臣方について小田原攻めに加わり、戦乱の時代を生き抜きました。子孫の家に伝来する中世文書のなかに、小林家の歴史・活躍と平井城、藤岡を見ていきます。

※史料名の後ろに(現代語訳あり)とあるものについては、目録の解題・説明に現代語訳を記載しています。