彼は明治10年に渡島の火山を調査しているが、翌年には貝塚などの遺跡を発掘し、8月に開拓使委員や通弁官らと玄武丸に乗船して、千島のシュムシュ島に至り、千島アイヌを調査している。九州旅行中に貝塚から土器を発見し、北海道にも同種の土器が出土することから、日本国中に石器時代の遺跡が存在することを確認し、これを基にアイヌ民族と日本民族との関係を調査するための千島行でもあった。
明治12年11月11日、ミルンは「小樽、函館の石器時代遺物及日本有史以前遺跡についての所見」と題した報告書をアジア協会の英文雑誌に発表している。この報告書は30ページにわたるもので、小樽、函館の有史以前遺跡と日本の有史以前遺跡に関する一般的な見解が述べられている。また、これには図や写真が掲載されていて、その中に小樽の銘刻(古代文学)のスケッチおよび函館、小樽の石器や土器の写真などが載せられており、特に函館で貝塚を発掘できたことを非常に喜んでいる。発掘した場所は函館公園や道路開削のため切崩された箇所であるが、発掘された遺物は石鏃、石槍、石小刀、石斧、曲玉(まがたま)、管玉(くだたま)、土器、その他に分類し、寸法、石質などについて考察を加えており、殊に石器については詳しく、現今の報告書の要領と変わらないほどよく記述している。曲玉と管玉は現在市立函館博物館に所蔵されているが、これはアイヌの人たちが造ったものではなく、日本本土から移入したものだと言っている。更に彼は函館と小樽の遺跡や遺物を比較して、函館の石器時代は小樽のそれよりも古く、先住民族が函館から北の小樽に移動し、その後にアイヌ民族が来たと考え、日本全般については南の九州から北の蝦夷(北海道)に至る貝塚、古墳、洞窟、竪穴住居について述べ、アイヌ民族が南から北に足跡を残したものであろうと述べている。
ジョン・ミルンの報告書"函館の土器・石器"