恵山文化とその資料

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 函館では恵山式土器とその資料がいろいろ出土しているが、その調査例は少ない。
 恵山式土器と貝塚の発掘品は、函館の能登川隆が集め、資料は一括して市立函館博物館に寄贈され、現在では市指定有形文化財として貴重なものである。この貝塚や遺跡は、文化庁から国指定の文化財候補として調査されたが、貝塚が消滅しているため、国指定としての保存が難しくなっている。
 恵山貝塚は、函館市の東約40キロメートルの所にあり、渡島半島南東端で現在の亀田郡尻岸内町恵山にある。北に恵山火山があり、南は津軽海峡に面している。海岸線に発達した段丘に遺跡があって貝塚は段丘崖にあったが、昭和29年以後に貝塚は消滅した。遺跡のあるところは、かつて根田内字冷水と呼ばれていたが、遺跡の東側には小さな沢があって段丘崖を切っている。
 昭和14年、能登川隆と尻岸内古武井在住していた玉谷勝が、この貝塚と遺跡を初めて発掘し、昭和15年11月には名取武光が学術調査をして墳墓などを発掘している。その後、昭和26年と、昭和30年代になってから市立函館博物館でも調査した。貝塚や墓壙からは漁労具、装飾品などの優れた骨角製品が出土しているが、能登川は「北海道恵山先史遺物図集」を出版したものの一般には知られず、当時の調査報告が出されたのは、名取武光「網と釣の覚書」(『北方文化研究報告』昭和35年)である。名取は恵山式土器について「亀ヶ岡式土器の終末期の特徴を伝える一方、後北式土器の特徴をもっている」と述べている。後北式土器とは河野広道、名取武光らによって付けられた土器形式名称で、後期北海道式薄手縄文土器のことであり、前述山内の分類による江別式である。
 恵山式土器とそれに類似する土器は、函館周辺、噴火湾沿岸の室蘭、虻田、八雲などや日本海側の松前、江差、瀬棚、蘭島などに分布し、東京大学の駒井和愛による森町尾白内貝塚の調査や、名取武光、峯山厳による噴火湾岸の遺跡調査によって、この時期のことが次第に明らかになってきた。
 恵山式土器は、弥生式土器とは異なってボール形土器やカップ形土器が現われ、土器の中には熊が意匠化されて把手(とって)や口縁部に飾り付けられ、朱で彩色されたものもある。石器は弥生式に伴う磨製の片刃石斧や環状石斧に似たものが出土するが、北朝鮮などの青銅器時代に伴出する石斧とも似ている。動物の皮を剥ぐのに用いられたりする石器で靴形石べらと呼んでいるものがあり、これは北太平洋や沿海州の沿岸から出土する石器に類似する。そのほか漁労具と関係のある魚形石器も遺跡からはかなり出土し、骨角製品では熊や海獣の飾りがあるものなど、特色あるものがある。

恵山式土器(壷・ボール形・カップ形) 西桔梗B2遺跡の墓壙出土