遺跡と立地条件

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 函館における恵山式土器および遺物の出土地は、函館山の北側と函館湾に近い箇所、あるいは丘陵や段丘上である。函館山周辺などには、かつては各時期の遺跡があったのであるが、古くから街区が発達したため、今では恵山式の遺跡は明らかでない。ただ「水元」、「函館港」など出土地の記入のある魚形石器が東京大学人類学教室や市立函館博物館に所蔵されているので、遺跡があったことは推定される。「水元」とは旧南部陣屋跡の後背地にあたる地域で段丘発達のみられたところである。「函館港」とは、今の大町あたりのことを指すのであろうか。港に近いところと思われる。函館山周辺では比較的高い位置にも比較的低い位置にも遺跡があった。丘陵や段丘上の遺跡は、西桔梗、日吉町、戸倉町、高松町、見晴町などにある。西桔梗の遺跡は函館圏流通センター用地内の西桔梗B2遺跡で、その調査報告書『西桔梗』に詳しいが、函館平野の20メートル段丘上にある。滝ノ沢の西に発達した日吉段丘には日吉町2丁目の日吉南遺跡、同町1丁目函館ラ・サール高等学校の東にも遺跡があった。また、函館ゴルフ場のある段丘には、標高80メートルの見晴町遺跡や函館工業高等専門学校の敷地内にあった戸倉遺跡がある。高松町の遺跡は函館空港に近い海岸の段丘上にあった。
 函館の近辺では七飯町の桜町遺跡、鳴川遺跡や上磯町の下添山(常盤町)遺跡などがあるが、下添山の水田地帯を除いて丘陵や段丘上に遺跡がある。これらの遺跡には今のところ恵山や尾白内のように貝塚を伴ったものはない。
 函館やその周辺の遺跡調査がほとんど行われていないので、その規模や性格については明らかではないが、地上観察による推定では1遺跡の範囲は直径100メートル内外で、大規模な遺跡はないようである。集落も丘陵や段丘の沢近くにあって、墓地もあるが、この時期の住居跡の発見例がほとんどないのは、土層にある生活面が上層であるため、畑の耕作などによって破壊されているからであろう。普通は土層に堆積した火山灰などを含めて、生活面が確認できるのは地表面から20センチメートル前後の深さであり、生活面を精査すると馬耕などプラウの掘削によって生活面はほとんど残されていない。住居は竪穴式であったであろうが、その深さは、さほどのものでなかったかも知れない。住居跡や集落の構造などについては今後の調査に期待するほかはないが、遺跡の立地条件は必ずしも低位置である海岸や水田地帯に限られてはいない。弥生式の遺跡が水田地帯などに立地するのに比べて恵山式の遺跡は比較的高い段丘にある。函館および周辺では20メートルから80メートル段丘にあるものがほとんどである。その規模も大きくはなく、遺跡が集中的に分布する傾向もない。こうしたことから狩猟が主ななりわいであったと考えられる。