志海苔古銭

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 昭和43年7月16日、函館市志海苔町247番地先海岸近くから多量の備蓄古銭が発見された。現在の国道278号線で志海苔漁港、志海苔館に近い場所で、道路改良工事を行っていた加藤組の工事現場の旧道掘削中に、大きな甕に入った古銭が出土し、更に翌17日にも同様に甕入りの古銭が発見された。これらは市立函館博物館によって整理され、報告書『函館志海苔古銭』-1973年-にまとめられている。埋蔵年代と古銭の種類、その分類と総数によって室町時代には蝦夷交易を行っていたかなりの数の和人が移住していたことがわかる。甕は発見順序に従って1号、2号、3号と呼ばれているが、最初に発見された1・2号甕は口径約60センチメートル、高さ約80センチメートルの大きな甕であるが、三号甕は破損がはなはだしく、底を残すのみで1・2号甕より小さい。1・2号甕は福井県の越前古窯のもので器膚が赤褐色をし、窯印と補修が認められる。ひびの入った部分に平織りの布を当て、黒漆で固めてある。窯印は井桁に「上」の字を組合せた押印で、越前古窯第Ⅲ期、室町時代前期に作られた甕である。3号甕は灰色の瓦質で、器面に叩(たた)きによる縄目がある。これは石川県能登半島で生産された珠洲窯第Ⅲ期のもので、室町時代前期から中期の大甕である。

石川県珠洲窯の陶器片


窯印(左 志海苔館出土の甕・右 志海苔の銭甕)(市立函館博物館蔵)

 古銭は1・2号甕に37万7,449枚、3号甕に6万6,987枚、合計37万4,000枚以上あったが、発見の際の散逸を合わせると推定45万枚から50万枚はあったであろう。銭種は94種類で不明銭が1万枚以上あるが、最も多いのが北宋銭で88.1パーセントを占めている。古い年代の銭貸名としては前漢の四銖(しゅ)半両、五銖、新の貨泉、唐の開元通宝、乾元重宝で、日本の皇朝銭が12種の中の8種あり、和銅開弥(飛鳥)、万年通宝(奈良)、神功開宝(奈良)、隆平永宝(平安)、富寿神宝(平安)、承和昌宝(平安)、貞観永宝(平安)、延喜通宝(平安)と、飛鳥から平安のものが含まれている。北宋銭で多いのは、皇宋通宝4万7,031枚、元豊通宝4万3,009枚、凞寧(きねい)元宝3万4,897枚、元祐通宝3万3,904枚、天聖元宝1万7,924枚などと、同一銭貨で1万枚以上のものが9種類ある。年代の新しいのは、明の大中通宝1枚、洪武通宝12枚である。唐の武徳4(621)年に初鋳された開元通宝は中国各地で造られたが、志海苔からは鋳造地の大半である16か所のものが出土しており、南宋の古銭は当時貨幣制度によって毎年鋳造年を背に刻したが、それらのほとんどが含まれていた。中国周辺の貨幣としては安南の太平興宝・天福鎮宝、遼の清寧通宝・咸雍通宝・大康通宝、高麗の東国通宝・東国重宝・海東通宝・海東重宝・三韓通宝・三韓重宝、金の正隆元宝・大定通宝、西夏の天盛元宝が見られ、その他和鋳銭、厭勝(ようしょう、まじない)銭、加工銭がある。
 3個の甕による異同について見ても、越前古窯の甕と珠洲窯の甕とでの銭種および銭種別枚数比率はほぼ同じである。
 甕の埋蔵状態は、現在の海岸線にほぼ平行して5メートル間隔に並んでいた状態で、砂層に穴を掘り、甕を安定するために粘土やこぶし大の石が詰められ、甕を覆っていた土の厚さは工事前には50センチメートルほどであったと推定されている。埋蔵の状態から、同時期に備蓄古銭用として使用されていたものであった。越前と珠洲とで異なる点は、珠洲の大甕の内面には一緡(さし)ずつにして埋蔵した銭の緑青(ろくしょう)色の錆痕(さびあと)が顕著であるのに対し、越前の甕には顕著に認められないことである。出土した古銭は、共に麻紐などを緡にして穴に通してあったが、緡の完全なものがなく、比較的保存状態のよい珠洲甕のものは一端に紐の結び目があり、他の一端はことごとく切れていた。一緡の枚数を調べると、多いので90枚、86枚、82枚であった。この時代には銭は1枚ずつではなく、通常一緡を単位として通用したが、宋の時代では77文が普通で、日本では鎌倉中期から慣用が見られ、目銭(もくせん)3文、97文をもって100文に通用し、室町時代後半まで続いた。

開元通宝(市立函館博物館蔵)


皇朝銭-函館志海苔出土古銭(市立函館博物館蔵)

 3個の甕に共通する点は、越前・珠洲が共に北陸で、日本海沿岸の交流と関係が深く、その時代も室町時代前期から中期に作られていたことである。
 志海苔古銭の性格は前記したように、埋蔵の状態から明らかに中世の備蓄古銭であると言えるが、出土した量も極めて多く、種類も北宋銭を主としながら前漢から明初までが含まれ、皇朝銭や中国周辺の銭貨が他の出土例より多く含まれているなどの特色がある。推定45万枚以上にのぼる量は、全国的に見て長野県中野の15万枚、福岡県久原の9万3,800枚、静岡県北山の3万1,800枚をはるかにしのぐ枚数である。埋蔵された年代を、古銭の種類と数量から、下限を洪武通宝(初鋳年1368年)が鋳造されて永楽通宝が流通するまでの間と見ることができる。普通中世の備蓄古銭は洪武通宝と永楽通宝を含むことが多く、全体に占める割合は10から22パーセントで、遣明船貿易以後であるが、志海苔古銭の場合は永楽通宝が無く、洪武通宝が全体の中でわずかに12枚と極めて少ない。備蓄が短期間に行われたのでないとすると、14世紀になって後半までの間に、当時中央の政治勢力が及ばなかった函館で、地域の支配力を持って昆布など蝦夷との関係のあった豪商的性格の人物がいたことも推察できる。建武元(1334)年の『庭訓往来』にある宇賀昆布、夷鮭の記述や、既に述べた貞治6(1367)年の板碑とも関連がありそうである。