諏訪大明神絵詞

321 / 706ページ
 当時、この地に渡り住んだものは、渡党(わたりとう)の名で呼ばれていたものらしく、すなわち、延文元(1356)年小坂円忠の手になる、『諏訪大明神絵詞』によると、「蝦夷千島というのは、わが国の東北に当る大海の中央にあって、そこには日(ひ)の本(もと)、唐子(からこ)、渡党の3種の住民がおり、その中の1島には3類が雑居している。そのうちには宇曽利鶴子州と万堂宇満伊犬という小島もあり、渡党は多く奥州津軽の外ヶ浜に往来して交易している。3種の蝦夷のうち、日の本、唐子の2類は、その地外国に連り、形体は夜叉のごとくで変化無窮であり、禽(きん)獣魚肉を常食として農耕を知らず、言語も通じがたい。一方、渡党は和人に似ているが髭(ひげ)が濃く多毛である。言語は俚(り)野だが大半は通ずる。」と記述している。この『諏訪大明神絵詞』の宇曽利鶴子がウソリケシで函館の古名であり、万堂宇満伊犬はマトウマイヌで松前の古称とされている。この宇曽利鶴子をウソリケシと読み、函館であるとすることに疑義をもち、応仁2(1468)年2月、安東師季が紀州熊野神社に納めた、「津軽外浜宇楚里鶴子遍地悉く安堵せられん事」を祈った願文を引用し、「津軽外ヶ浜、宇楚里、鶴子遍地(つるべこち)と読んでいる説もある(『西津軽郡史』『青森県の歴史』)。しかし鶴子遍地なる地名はどこなのか不明であり、鶴子をケシと読むことも間違いはなさそうである。ウソリケシの語原はアイヌ語で、ウソリはふところ・湾・入江を意味し、ケシは彼方・しもてを意味している。函館はむかしはウスケシ(宇須岸)といい(『新羅之記録』)、ウスリケシが訛(なま)って使われたものである。しかも『諏訪大明神絵詞』は蝦夷千島の物語であり、それに出てくるウソリケシ、マトウマイヌの地名は函館・松前と見て誤りはなく、これら北海道の南部の渡党と呼ばれる人々は、すでに国史に初見される以前から、津軽海峡を越えて奥州外ヶ浜に往来し、盛んに交易していたことが証明される。

蝦夷に関する最古の絵 「聖徳太子絵伝」より(茨城県那珂町 上宮寺蔵)