安東盛季の渡来

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 しかるに安東盛季十三湊放棄の時点については、永享4(1432)年説と嘉吉3(1443)年説の2説があり、前者は″黒衣の宰相″と呼ばれ、幕府の政治顧問だった僧満済の『満済准后日記(まんさいじゆごうにっき)』にみえるところとしてすこぶる有力であるが、それによると、(永享4年)
 
 十月二十一日、雨。今日於小松谷仰条々事。奥の下国与南部弓矢事に付て、下国弓矢に取負、えぞが島へ没落云々。仍和睦事、連々申間、先度被仰遣候処、南部不承引申也。重可仰遣条、可何様哉、各意見可申入旨、畠山、山名、赤松に可相尋云々。仍三人に相尋処、畠山重可申入云々。山名、赤松は重可仰遣条、尤宜存云々

 とあって、この年、安東氏が蝦夷島へのがれ、足利幕府に和睦を依頼したが、南部氏は承知しないので、幕府は重ねて諸将にその取扱いを議したところ、いずれも再び和睦を仰せ遣わすべきを答えている。
 しかしその後の情勢を安東氏関係の所伝によって見ると、後者の嘉吉3年説にも捨てがたい根拠がある。すなわち、『若州羽賀寺縁起』によれば、それから3年を経た、「永享七(一四三五)年三月、火災により羽賀寺の七堂伽藍がことごとく焼失し、ときに御花園帝いたく御心をなやませられ、再興を幕府に勅請したが何等の請答なく、いたずらに歳月を重ねるのみなので、ここに奥州十三湊安東盛季に勅宣された。盛季はこれに応え教季と協議して、その弟康季を聖勅奉仕者とし伽藍再建に当らせている」ことや、また松前家の最古の記録とされる『新羅之記録』によれば、永享12年南部義政に、安東盛季の娘が嫁すという縁組のことなどもあるから、いったん両者の間に和睦が成立したふしも考えられる。
 その後の経過について『新羅之記録』は、次のように記録している。それによれば南部義政は、
 
 同(永享)十二年十三之湊の盛季朝臣の息女を娶(めと)って、後義政糠部(ぬかぶ)より十三之湊に行き舅盛季に対面し、還る途中にて津軽は聞きしに増したる善き所なりと度々云えり。時に同朋蓮阿弥近く差し寄り、度々津軽を褒美し御(たま)う事、如(も)し彼を望ましめば籌策(ちゅうさく)を廻(めぐ)らすべしと云へり。帰りて後時々義政の簾中に参り、密かに十三之湊の家老其余の侍共、何の故ありてか向後は義政を頼み入るべきの旨頻りに申す。実に奇怪の事なりと云う。又形を弊(やつ)し粧を替え十三之湊に忍び行き、計策の文をしたためて之を落す。義政の簾中よりは文を親父盛季に遣し、家老諸侍等の叛逆の由を告げ給う間、縡(こと)已に符合せしむ。盛季朝臣家運尽きて家老を始め其外善き侍数十人を誅伐す。此節義政出張して嘉吉二年秋十三之湊を攻め破りて津軽を乗取り、盛季没落して左右に館籠ると雖も、無勢たるを以て防ぎ戦うこと克(かな)わず、追出されて小の柴館に去る。同三年十二月十日狄の島に北(にげ)渡らんと欲するの処、冬天たれば順風吹かず難儀に及べり、粤(ここ)に道明法師天を仰ぎ地に俯し、肝胆を砕くに、忽ち天の加護あり巽(たつみ)風吹いて出船す。(以下略)

とあり、南部義政の謀略によって破れ、嘉吉3年に蝦夷島に逃れたというのである。
 更にまた、康季の奉仕によって羽賀寺の再建をみるに至り、後花園帝は安東一族の布施心に大いに感銘し、その賞として太刀一振を下賜されたが、康季はこれを上納し奉り、改めて南部義政の津軽侵領を、朝賊とする宣命書を請奏し、次の不可侵宣命書を賜っている。
 
       宣命
安倍一族之処領不侵、東日流(つがる)外三郡ハ皇領也。依リテ皇領ノ守護職ヲ任ズル安倍一族ノ当主ニ者也。茲ニ犯ス皇土ヲ者ハ朝敵ノ輩也。安倍一族ハ代リ天朝二是ヲ討伐永代ニ任ズル者也。
       嘉吉三年正月
                                          押桐紋印
                                               花押 
                                          菊華印

 右の宣命書と日月の皇旗を賜って、康季は一刻をも惜しんで帰郷したが、南部勢は十三湊をことごとく攻略し、すでに唐川の城も焼失して戦雲はいよいよ暗く、わずかに小の柴崎城(柴館)の攻防を最後に、嘉吉3年安倍一族は渡嶋や阿北(あきた)に退いて、故地十三浦を涙をふるって離れた(補陀寺蔵書『小浜往来記』『羽賀寺讃否書』)。なお羽賀寺の落慶は文安4(1447)年である。
 かくて蝦夷地にのがれた盛季は津軽の失地回復を図ったが成らず、次子康季もその衣鉢を継いで、文安3年から津軽外根城に拠ったが病死し、その子義季(よしすえ)も宝徳3(1451)年鼻和郡大浦郷に兵を挙げたけれども、享徳2(1453)年南部氏に攻められて敗死するに至り、ここに下国安東氏の宗家は断絶した(『北海道史』)。