このような東部アイヌのたびたびの抗争により、次第に和人は繁栄を誇ったこの地帯から駆逐され、蝦夷地和人の中心は上ノ国、福山(松前)の地に移った。この間、蠣崎信広は蝦夷地統一への触手を伸ばし始め、上ノ国の天ノ川、石崎川、厚沢部川の豊富な鮭や、石崎川の砂金を手中におさめるとともに、アイヌの騒乱にわずらわされることなく、北陸方面との交通も保たれて力を蓄え、着々とその勢力を拡張していた。しかし、この時点にあっても、蝦夷地における和人勢力の統一者は、依然として出羽檜山の安東氏の系譜に連なる、譜代ともいうべき松前の大館の下国氏にあって、外様の蠣崎氏は上ノ国地方の一館主に過ぎなかった。
こうしたなかに明応3(1494)年5月、信広は64歳をもって没し、その子光広が継いだ。
一方、松前の大館を預っていた下国氏も、定季の没後その子恒季が継いだが、恒季はとかく行状が粗暴で無辜(むこ)の民を殺戮(りく)することもあったため、家臣どもはこれを憂慮し、ひそかに檜山の宗家安東氏に注進したので、明応5年11月、檜山の安東氏は追手を下して恒季を自害させた。そしてその後は、相原周防守政胤の息彦三郎季胤に大館を守らせ、村上三河守政儀をもって季胤の補佐をさせた。