蠣崎氏が各館主やその子孫を臣下につけ、原住民アイヌと地域協定を結び「和人地」を確定、渡島半島西部の一角を領土とし、その政治権力を握ったとはいいながら、その身分は、いわば東北の豪族安東氏の1代官に過ぎなかった。しかもその政権は、あくまで和人地における和人に限定されたものであり、アイヌ民族に関しては、商品流通機構の一部を把握したにとどまり、依然、蝦夷地の土地・人民の支配までは遠く及ばなかった。こうした和人政権とアイヌ民族との関係を根底から変えていったのは、幕藩制国家の成立と展開であった。
すなわち、天正18(1590)年関白豊臣秀吉が小田原城の北条氏を滅ぼして奥州に出陣するや、蠣崎慶広(季広の子)は、前田利家・木村秀俊らの武将に会い、同年12月京都に上って秀吉に謁見することに成功した。かくて慶広は聚楽第において、特に従5位下に叙され民部大輔に任じられるとともに、蝦夷一島の支配を認められ、安東氏から独立して、天下を統一した秀吉の直臣となったのである。