徳川の幕下に入る

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 慶長3(1598)年8月、秀吉が没し、徳川家康が主として政務を執るに至ると、慶広は翌4年11月家康に会い、蝦夷島地図と家譜を奉ったが、蠣崎氏を改め松前氏としたのはこの時であった。次いでその後、関ヶ原の戦いに勝って天下を掌握した家康のもとへ、同6年赴いた盛広(慶広の長子)は、従5位下若狭守に任じられた。更に同8年江戸に参勤した慶広は百人扶持を給され、同9年再び家康から次の黒印の制書を受け、一層広い権限を確保したのである。
 
      定
一、諸国より松前へ出入の者共、志摩守に相断らずして、夷仁と直に商売仕り候儀曲事となすべきこと。
一、志摩守に断わりなくして渡海せしめ、売買仕り候者、急度言上致すべきこと。
  付、夷の儀は、何方へ往行候とも、夷次第に致すべきこと。
一、夷仁に対し非分申懸くるは、堅く停止のこと。
右条々若し違背の輩においては、厳科に処すべき者也。仍て件の如し。
       慶長九年正月二十七日 黒印
                        松前志摩守どのへ

 

松前藩成立を認めた徳川家康黒印の制書

 かくて松前氏は徳川の幕下に入り、交代寄合の資格をもって1藩を形成し、諸大名に準ずる格式で慕藩体制下に組込まれ、一挙に近世大名として登場してくるのである。
 しかしながら松前藩の封建体制は、前記の制書の内容に象徴されるように、他藩とは著しく異なっていた。
 すなわち、他藩における藩体制の経済的基盤は、水田農業生産にあり、農民を軸にした年貢の収奪にあるのに対し、非農業地帯である松前藩は、元来アイヌ民族の世界であり、漁猟生活を基盤とした社会であった。中世末期に封建武士団が移住しはじめたとはいえ、蝦夷地の大部分は、日本の封建性社会からみれば、全く国家形成以前の社会であり、また、その移住武士団および和人による、いわゆる「館」を中心として形成された集団社会も、農業を主体としたものではなく、あくまでアイヌとの交易と若干の漁業に、その基本的な経済的基盤を求めていた。従って松前藩が確立しても、その基本的な原則には変わりなく、前述に見たごとく松前氏が秀吉ならびに家康に、この交易の独占権を保証する制書を、強く要望したのもそのためである。