この時代特に注目すべきことは、松前藩制が大きな矛盾に遭遇し、新たな改革策を迫られている時期でもあったことである。すなわち、前述のごとく松前藩の財政ならびに知行制の内容が、商人による場所請負制度への構造的な変化を遂げたぱかりではなく、一方、和人地における零細漁民の漁業経営も、宝暦・天明の飢饉以来、東北地方からの急激な移民の増加により、従来わずかに前浜での昆布・鰊・その他魚介類などの漁労に過ぎなかったものが、西海岸では追鰊といって熊石以北の蝦夷地に出漁する者もあり、また東部箱館近在にあっても、汐首岬を越え噴火湾沿岸部へ出漁する小漁民も急速に増加した。
たとえば昆布採取についてみても、これまでは汐首以北に出る場合には、昆布船役を徴収されていたが、このころになると、改めを受けることもなく、勝手に蝦夷地に出漁する漁民が続出、また鮫取船も魚油生産を目ざして、東蝦夷地に出漁する者が多くなってきていた。
こうした生産構造の変化は、いうまでもなく移民の増加と、それに伴う本州商人の松前進出、更に畿内先進地帯での鰊魚肥需要の増大と、若越交易を中心とする本州諸港との商品流通の発達等と、相互にからみ合う中で生じてきたのである。