宝暦・天明期は、幕藩制社会が崩壊への道を歩みはじめた時期であるが、北海道にあっても松前藩を根底から支える生産や、商品流通の構造が著しい変化を遂げた時期であった。先にみたように、北海道と本州諸港との商品流通は、松前藩の再生産構造の特殊性や流通担当商人の性格から、若越中心型のものとして発展した。その中で大きな役割を果たしていたのが、近江商人である。被らは早くも慶長期ころから松前に進出しはじめ、寛永期以降その活動はより活発化し、すでにこの時期には10数名の近江商人(柳川・薩摩・八幡出身者)が松前に出店を設けるに至っていた。
彼らは昆布・干鮭・干鱈・千貝・鰊などの松前物を上方市場で売りさばき、上方からは衣類をはじめ、あらゆる生活必需物資を仕入れては松前に持込み、いわゆる隔地間交易を通じて莫大な利益を得ていた。そして彼らの多くは渡道間もなく藩権力と結びつき、両浜組というギルド組織をつくって共同行動をとった。また、単なる行商ではなく、出店を設け運輸業と商業をかねた幅広い商業活動を行った。従って諸商品の売買仕込みを通じて、実質的には集荷過程にまで商権が拡大していったのである。しかも恒常的な交易を望む松前藩にとっては、こうした活動がむしろ藩体制を維持する上で非常に有利となり、ために移出入税等の特権を与えるなどの優遇措置をとったことなどによって、彼らは渡道間もなく、急速に松前交易の独占権を掌握していったのである。
ことに元禄・享保期の鰊生産と需要の増大というなかで、彼らの活動は一層めざましく、自己の手船だけでなく、共同雇用船団である荷所船(にどころぶね)を使用し、大量の物資を短期間に輸送した。このため、この時期には、彼らの流通独占体制はより強化され、宝暦8(1758)年には、松前・江差に進出した近江商人は30名前後にふくれあがっていた。その結果、松前交易の性格も、彼らの交易方法に大きく左右され、一部には北海道~大坂・下関交易の発展もあったが、全体としては敦賀・小浜中心の交易になっていた。