中世の箱館地方の文化は、本州から武士や僧侶などの渡来によって、しだいにその水準を高めていったことは、残存する少数の資料が示すところである。
貞治の碑は、二様の阿弥陀信仰を陰刻し、平安から鎌倉にかけて信仰された来迎の浄土思想を、みごとに表現した一種の曼陀羅であり、ともに発掘された前述の太刀なども、『蝦夷実地検考録』の著者が、「按るに碑を建し年は貞治六年なれば、その道阿という人の亡父母は、蓋し鎌倉北條氏の代の人にて、早く此地に来りし家としらる」と指摘するように、渡来した人たちによる文化移入の一資料である。永享の鰐口の奉納者「平氏盛阿弥」にしても、弘前長勝寺の嘉元4年鋳造の鐘に刻む平氏と、無関係とは断定できないものがあろう。
また、交易による文化流入も当然考えられる。志海苔町出土の古銭を収容した3個の大甕は、室町期の越前窯および能登の珠洲窯と推定され、昆布を媒介としてこの地との文化交流を物語り、志海苔館からも越前窯粗陶破片とともに、宋代末から明代と思われる中国青磁破片などが出土して、広く遠く打寄せる文化の波を思わせる。
『新羅之記録』によれば、室町期の箱館港には、すでに若狭からの定期航路が開け、既述のように問屋は家を渚に掛け造りし、縁の柱に纜(ともづな)を結んだと記している。このように生活面での創意も生じてきた。同書は更に、嘉蜂という僧が若狭から商船に乗って来たことを伝え、その時持ってきた小松が、大木になって枝が若狭の方に向って伸びたので、「思いの松」と呼び、嘉蜂が物故すると枯れたので、人々は「嘆きの松」と呼んだともいい、思いの松、嘆きの松など庶民の文学的発想が看取される。