さてこれより先、嘉兵衛がロシア船に捕え去られた報が江戸に達すると、老中らは審議のうえ、諭書をロシア人に与え、もし先年の暴挙略奪が全く海賊の行為であることを明らかにしたならば、補虜を放還することに決した。そして文化10年3月、この「魯西亜船え相渡候諭書」を、時の松前奉行服部備後守貞勝が携えて福山に来任し、その旨をゴロウニンに通じ、別に一書をゴロウニンの筆による訳文をつくって、国後島に送りロシア人が来たら渡すことにしていた。
かくてこの諭書は早速国後に送られ嘉兵衛の手によってリコルドに渡された。リコルドらはゴロウニンらの生存の証拠を得て喜んで同意したので、ただちに福山に急報した。それによって7月11日、松前奉行所から吟味役高橋三平、柑本兵五郎が、露囚シモーノフとアレキセイを伴って国後に到着、嘉兵衛を引見して委細を尋問した後、捕虜放還の条件として、その国の長官の謝罪書を提出し、前年略奪した兵器、財物を返却すべきことを要求した。もちろん、この時も嘉兵衛が彼我の間に立って交渉の進行をはかり、結局リコルドはこれを承諾し、7月14日国後島を出帆してオホーツクに帰り、日本側の要求する公書をととのえて箱館に来航することになった。