かくて文政5年3月、松前藩転封後の本領梁川から家老蠣崎将監、松前内蔵、用人工藤八郎右衛門が松前に至り、4月13日福山で幕府吟味役森覚蔵らから福山城ならびに松前から樺太に至る版図を受取り、また箱館では工藤八郎右衛門が、普請役元締並福井千馬助から沖ノ口を、同じく吟味役三浦義十郎から箱館地方および東蝦夷地の版図を、それぞれ引継いだ。
幕府はその時、箱館その他市在への貸金4万両を棄損し、一方、アイヌ一同に対しても、各地の引継ぎが終るとそれぞれ酒を賜い、アイヌの撫育や産物の取捌きなどの取扱い方、その他の仕法などもこれまでと変わることがないから、一同安心して生業に励むよう申渡している。当時松前家の窮乏ははなはだしく、梁川からの移転費用なども、江戸の商人伊達浅之助(林右衛門の本店)や栖原角兵衛(半次郎の本店)などに用金を調達させて支弁したといわれる。(『伊達家文書』)