藩政の実状

498 ~ 499 / 706ページ
 しかし、このようにして復活した松前藩の統治も、幕府が期待したようにはならず、14代藩主章広の没後は、老臣の専横に加えて奸臣がこれに乗じてはびこるといった有様で、綱紀の乱脈、藩政の弛緩から取締りも行届かなかった。当時の松前藩の一般的な施政を物語る一つの文献として、天保年間に著述された『北陸対問』というのがあるが、これはそのころ松前や蝦夷地に通商のためしばしば往来し、その内情にくわしかった常陸(ひたち)の大内清右衛門という者から、水戸藩彰考館総裁国友善庵が、いろいろ聞きだして記述したものである。それによれば勤番役人などは、「夷人共万一不時等これ有り候節は、役夷人同道にて会所へ呼び出し、それぞれ申し含め、右にて強情等申し候者は、縄下位の所まで取計い候」と、会所詰合程度の者でさえ、捕縄くらいの刑罰権限をもっていた。しかもその会所役人というのは士分のものではなく、「町内の者共へ格を付け役所へ詰めさせ、すべて取扱わせ候様子にて、益筋の事は油断なく取計い候様子に相聞え、公辺の御扱いとは大いに違い候様子に相聞え申し候。下役は足軽を使い候得共、この足軽も皆町方より召し抱え、下々の事は委細に弁え居り、松前の政事は収納専一に相見え、其外の政事は余り世話致さざる様に相見え申し候。」とあって、町方から雇われたものが役所に詰めて、商人同様の方法で藩の利益になることならば、油断もすきもなく取計らい、政事とは収納をもって第一としていたことを物語っている。
 松前藩はこのような方法と手段とをもって財源を求めながら、しばしば幕府要路に対して莫大な献金を続け、ひたすらその厚意歓心を得ようと努めたが、一方においては藩の歳出も次第に増加するにつれ、財政は一層逼迫する傾向をたどった。これがため倹約令を出したり、また沖ノ口諸税の引上げを行ったりして、極力その立直しに腐心したとはいえ、すでに内政の紊乱は財政建直し効果さえあげることもできなかった。そしてそのひずみは必然的に有力な場所請負人の肩に、いわゆる献納金、用立金、冥加金の名目でかかり、それに応ずることにより請負人らの勢力はますます増大した。また藩でもつとめて請負人の機嫌をとり、たとえば天保14(1843)年、高田屋のあと択捉場所藤野喜兵衛に請負わせた時などは、アイヌが「前の金兵衛(高田屋)の事を思い出し、恋しがらるる様では大きにわるいが、しかし其方共もしる通り、蝦夷人と申すは何程手当よく致してやっても限りのないもの、これはこれまで其方共の請負所の振合にてよし。」(藩主章広の手簡)と、最も重要なアイヌの撫育すら犠牲にして、一切商人に任せてその財力にすがろうとした。従って交易の不正や虐使が再び行われるようになったのも当然の帰結であった。しかもこれらの内政が他藩や幕府要辺にもれることを極度に警戒した松前藩では、アイヌに日本語を使用することを禁じ、または直轄時代につくった道路はおろか、橋梁の修理も怠り、交通を不便にし、内陸事情の探査を妨げるといった方法さえあえてとり、箱館の「富山泉」などもその源を塞ぎ、碑を倒して高龍寺の溝の橋板がわりにするなど、例を挙げればきりがない。