この間、箱館奉行にも更迭異動があり、万延元(1860)年堀織部正に代って、勝田充万が奉行に補され伊賀守に任じ、文久元(1861)年には竹内下野守の欧洲特派により、糟谷義明を奉行に補し筑後守に任じた。また文久2年津田近江守が勘定奉行に転じ、後任として水野忠徳(筑後守)が奉行に補されたが、わずか2か月で退隠したので、同年11月小出秀実が奉行となり大和守に任じた。更に文久3年小出大和守が勘定奉行に転任したので、同年8月箱館奉行支配組頭であった新藤鉊蔵方凉が箱館奉行並に進み、慶応2年正月杉浦勝誠(兵庫頭)が寄合から箱館奉行に転じ、同3年6月には栗本鯤(安芸守)が勘定奉行格箱館奉行兼務を命じられた。次いで同じく慶応3年9月、織田信発が勘定奉行兼箱館奉行に補され、和泉守に任じたが、翌4年(この年9月明治と改元)2月大目付に転じたので、その後任には橋本悌蔵が箱館奉行並に補され、まもなく廃官となった。以上のように箱館奉行には幕府再直轄以来13人が歴任している。