すなわち、安政元年ペリーが箱館に入港すると、乗組員を手分けして動植物、鉱物の採取を行い、気象観測、深浅測量、火山の調査等を行い、貴重な報告を残した。また在留した外国人の中にも科学的調査に興味を持つ者も多く、安政6年に着任したイギリス領事ホジソンは、箱館および近郊の植物を採取して、これを本国キューガーデンの植物園長に送り、その標本と文献から考証した日本植物目録を、『長崎および箱館滞留記』の巻末に掲載し、万延元年秋には後にペテルブルグの植物園長となったマキシモウィッチが、箱館に滞在して1年余も従僕須川長之助に本道の植物を採集させ、それをもって『日本および満州植物誌』を著わし、わが国の植物学界に大きく寄与するところがあった。須川は後に植物採集家となり、「チョウノスケソウ」と呼ぶバラ科の植物にその名が残っている。
更に英人ブラキストンは、ロシア沿海州調査の目的で文久元年箱館に来て、のちにわが国最初の蒸汽製材工場を設けるとともに、西太平洋商会の支配人として、中国およびロシア貿易に従事し、そのかたわら鳥類の採集研究をして、第1・2編で述べたように津軽海峡がわが国動物の一分界線であることを発表、ついに同海峡にブラキストン線の名をつけられるに至ったことは、特記すべき功績である。ブラキストン採集の鳥類標本は、後に箱館仮博物場に寄贈され、現在は北海道大学付属博物館に保存されている。
マキシモウィッチ
ブラキストン
アイヌに関する研究は特に外国人の注意をひいたもので、フランス領事館書記メルメ・デ・カションなどはアイヌ語小辞典を編集し、またアイヌに関する論著も発表している。
慶応元(1865)年9月、英国領事館のトローン、ケミッシュ、植物学者ホワイトレーの3名は相談のうえ、森村(現森町)のアイヌの墳墓を発掘し、その骨格4体分を本国に送り、10月再び落部村に出かけ13体を発掘し、これを発送しようとした。ところがその地方の部落民の訴えがあり、この地方はまた遊歩区域外でもあったので外交問題となり、奉行小出秀実の厳重な抗議にあったため英国公使パークスは未発送の人骨を返却し、賠償金を提供し、首謀者らを禁錮刑に処した。さきに発送した骨格は大英博物館に送られたが、本国学者の要請によったものであろうと想像される。