為替及び金融

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 為替は江戸大坂京都はもちろん、庄内、新潟敦賀、その他の各地に向かっても取り組まれた。従来は手数料を要しなかったが、当時代の末ごろから、箱館においては金高の100分の2に定められたという。しかし箱館では荷為替を取組むまでに至っていなかった。
 商人の取引勘定は普通1か年4回で、第1回は5月1日から4日まで、第2回は7月10日から13日まで、第3回は9月9日、第4回は12月の大晦日(みそか)であった。
 金利は信用のある商人間の短期貸借は多く無利子、無証文であったが、普通貸借では年1割5分ないし3割で、漁民に対してはそれよりも高いものが多かった。抵当は子供、自身、夫婦さえも書入れているものがある。しかも、仕込の際は高価な品物を与え、その漁獲物を低価で引き取るので一層高利になった。松浦武四郎の記録によると、早春荷物積込のため場所に赴く者の借金の利子は、帰って直ちに返済すれば2割、翌日に延びれば3割となり、また塩鮭を積んで江戸へ行く者は、到着して直ちに問屋に納めるときは2割、来春帰って納めるときは4割になったという。ほかに金融の方法には、質屋、無尽、頼母子講などあり、慶応2(1866)年には金融会所なるものができ、年4回にわたって掛金を出し、その金子を出願者に貸付ける方法をとっていたといわれるが、その利息などは不明である。
 質屋の利息は天保年間までは月4分であり、その後3分となっていたが、慶応2年物価騰貴のためまた4分に戻った。