前直轄時代にも幕府は
蝦夷地に鉄銭を通用させ、かなりの好成績を納めているが、松前藩復領とともに廃止し、交易はもとの物々交換に戻っていた。そのため交易上不正が多く、そのうえ銭の通用がなければ、
在住の士民の不便も少なくないので、
箱館奉行は鉄銭を鋳造して再び流通を図るとともに、それによって得た利潤で
蝦夷地経営の財源にしようとして、安政3年2月幕府に稟請し、6月命によって更に詳細な計画を上申して許可を受け、同年11月
箱館の
谷地頭に
銭座を設けた。そして同4年2月から鋳造をはじめ、同年閏5月から通用を開始したが、同5年11月までに10万650貫文を鋳造した。この銭は
箱館通宝と称し、円輪、円孔、背に安の字を付した1文銭で、
箱館、松前、
蝦夷地を限り通用を許されたものである。こうして
箱館、松前、江差に、おのおの2、3名の商人に命じて両替に当らせ、新銭は1両に対し6貫800文、他銭と替えるときはこれまで通り6貫400文で両替させて新銭の通用を図った。
蝦夷地には3万貫を回し、
アイヌの給料、手当などにも現物と取りまぜて渡し、また奉行巡回の節、賑恤、賞与としてこれを下賜し、通用を図った。従来
箱館地方には4文銭、10文銭がなく、鉄銭もまた多くなかったので、日用に不便であったから、一時新銭が歓迎されたが、その製法が粗悪だったため、後には一般からきらわれるようになった。
ことに慶応年間になると天保当百銭、文久銭がおびただしく移入されたため、銭価はいちじるしく下落し、慶応2年4月、
箱館では天保銭両替を7貫500文に改めざるを得なくなった。しかも銭価の下落はますますはなはだしく、ついに商店では銭を受け取らないようになったので、明治元年5月、
箱館裁判所は両替銭を13貫600文と定めるに至っている。
箱館銭座の図
箱館通宝