樺太漁業

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松川弁之助

 樺太漁業は当時なお微々たるものであったが、箱館とは密接な関係があった。同島が「場所」として開発されたのは、寛政2(1790)年のことで、文化年間以後、伊達林右衛門栖原角兵衛の2人が共同してこれを請負い、その後アニワ湾および西海岸の南部で漁業が行われた。
 これが当時代になって、幕府はなおその奥地を開き、もってロシア人の侵入を防ごうとし、安政3(1856)年東海岸および西海岸ノタサン以北を直捌場所として、越後の人松川弁之助に差配を命じ、漁場を開発させた。そこで弁之助は翌4年、初めて東海岸オチョボカに漁舎を建て、姻戚の佐藤広右衛門と協力し、奉行所から金1万両を借り、本店を箱館に置き、大船10余艘を備えてこれに従事したのである。また米屋喜代作山田文右衛門も同じく出稼ぎを出願して差配人並に命じられ、幕府は、東海岸知床岬からマクンコタンに至る数十里の間を、弁之助、広右衛門、喜代作、文右衛門の4人に分割して漁場を開発させた。更に越前大野藩(土井候)も、西海岸クシュンナイに石狩出張番屋を設けて漁場を開発したが、しかし当時交通不便で、経費も多くかかり、かつロシア人はクシュンナイ、マーヌイの線以南に進出して人心穏やかならず、その経営は極めて惨憺たるものがあり、弁之助、広右衛門はほとんど破産して帰国、文右衛門、喜代作もその費用に堪えることができず、これを辞したので、やむを得ず同島南部の請負人林右衛門、角兵衛にその後を引受けさせた。こうした中にも安房の勝山藩(酒井候)が、文久3年東海岸の奥地である静河(シツカ)を請い、漁場を開いた。樺太の開発は他日箱館繁栄の一要困となるものであるが、その創成期はこのような人々の苦心が積み重ねられたものである。