ペリーの新たな思惑

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 ところで、松前藩側のペリーに対する回答書の内容が休息所の提供の件を除けば、ペリーの要望をほぼ受け入れたものであったために、ペリーはこの回答を受け取るや、それを足がかりに、以後松前藩の役人に対して新たな要求を相次いでつきつけていった。(1)松前藩主との会見、(2)市中各商人とアメリカ人との商品の直接売買の実施、(3)市中民家の戸締を開き、婦女子を見せること、(4)遊歩区域の即時決定、などがそれであった。(1)の松前藩主との会見の要求は、箱館における交渉相手の地位や権限、及びアメリカ合衆国の代表者としてのペリーの威厳の堅持という問題と深くかかわるものであったが、さらにこのことは他方で、ペリーが箱館に到着した際、幕府から現地に派遣されているものと理解していた徒目付平山謙二郎・オランダ語通詞名村五八郎の両名が未だ箱館に到着していないことを知ったという問題とも複雑にからみあっていたようである。
 まず後者の問題についてみると、もともとペリーは、箱館での交渉の際、同地には松前藩の役人の他に平山謙二郎と名村五八郎がいるものと理解していたことは、4月21日、松前藩の応接方がマセドニアン号に向かった際、ウィリアムズが真っ先に両名の箱館到着の有無を彼等にききただしていることや、その後の日米交渉に於いて両名の遅着が最後まで大きな問題となっていることからも知ることができる(「御用記写」、『遠征記』、『随行記』)。しかし、これはペリーの思いちがいであった。とはいえ、ペリーがこうした思いちがいをした裏には、それなりの理由が存在していたこともみのがせない。すなわち、3月25日付亜米利加応接掛宛下田出役浦賀奉行支配組頭黒川嘉兵衛・徒目付中台信太郎書状に、ペリーが下田より箱館に向かうに当たり、「日本役人・通詞差添可被仰付、其者共陸地相廻候而は手重ニ付、蒸気船江乗組同伴可仕」(『幕外』5-386)ことを要求したとあるように、当初ペリーは、箱館での交渉に「日本役人・通詞」を同伴することを強く望んでいたのである。これに対して幕府は、幕吏と通詞がペリーの艦船に同乗して箱館に向かうことは拒否したものの、通詞については、新たに蝦夷地御用を命じられた名村五八郎に「其模様ニ寄用便可致」(4月3日応接掛宛黒田・中台書状『幕外』6-13)ことを命じたことをペリーに伝えていた。ところがその後応接掛は、名村の主任務が蝦夷地御用であり、箱館で通詞を勤めることは不可能と知るや、あわててその旨をペリーに伝えるよう黒川・中台に指示したが、その書状に「通詞之儀は、此度於彼地(箱館)立合候儀ハ何分難出来、異人之儀、異約ニ而、於彼地苦情申立候而は、迷惑可致候間、兼而此段程能申諭被置候様存候」(4月5日付黒川・中台宛応接掛・下田取締掛書状、『幕外』6-27、( )内引用者)とあることは興味深い。この文は、裏をかえせば、名村の箱館行が不可能となった事情をペリー側に正確に伝えられない場合、ペリーが幕府の「異約」を理由に箱館で「苦情」を申したてる可能性を応接掛がすでに予測していたことを示すものにほかならないからである。
 黒川・中台は、この応接掛の指示をうけて、「通詞名村五八郎箱館異人共ニ出会無之訳柄」を説明したが(4月9日付応接掛宛黒川・中台書状『幕外』6-58)、箱館におけるペリーの言動をみると、ペリーにはその間の事情が正確に伝わっていなかったとみてよい。平山謙二郎に関しては、その具体的な経緯は定かでないが、ペリーが箱館に向かうに当たり、幕吏と通詞の同伴を要求したことや、平山・名村の両名は、横浜における日米交渉の際、ともに最後まで親しくペリーに接した人物であったこと、さらに上記のような名村の例などを総合して考えると、平山の場合も名村と類似した状況にあったものと推察される。
 ともあれ、こうして箱館における日米交渉は、結局ペリー側と松前藩役人のみとの交渉となった。ペリーが松前藩の役人に対して松前行と藩主との会見を要求したのも、こうした状況と深くかかわっていた。すなわち、ペリーが箱館で交渉すべき人物と予測していた平山謙二郎と名村五八郎が「未着」であっただけでなく、松前藩側の応接者も藩主ではなく、家老以下の家臣のみという現実に遭遇するに至って、ペリーが「函館には條約に関して自分と會商を行ひ得べき人物がゐない」(『遠征記』)と判断したことと、ウイリアムズが「松前公此所迄御出張有之、夫々御取扱も可之処、其義も無之、提督義甚不快ニ存候」(「御用記写」)と述べているように、松前藩の応接のあり方にペリーが大きな不満をいだいたこと、などがそれである。しかし、「御用記写」によると、ペリーは松前行や藩主との会見を執拗に要求しており、こうした側面にも目を向けると、上に挙げたことのみがその主因とは考えられず、ペリーをしてこうした行動をさせた裏には、別な目的も秘められていたようにも思えるのである。それが何だったのかは定かでないが、他の要求事項に関する交渉のあり方から判断すると、おそらくその裏には、平山・名村がいないという現実を逆手にとり、松前藩主との会見という要求を藩の役人たちにつきつけることによって、より有利な回答を引き出そうとする新たな思惑が秘められていたものとも推察される。というのも、ペリーは、横浜や下田での幕吏との交渉を通じて、幕府と大名との政治的関係について一定の知識を有するに至っており、しかも箱館渡来後、松前藩に日米和親条約に関する日米交渉の経過はいうまでもなく、同条約文さえ知らされていないことを改めて知り、その結果、後述のように、こうした情報量のギャップを意図的に活用して松前藩役人との交渉を行っているからである。なお、4月26日、松前勘解由が藩主より全権を委任されていることを確認するや、以後藩主との会見要求を中止した(同前)。