次に、(2)市中商人とアメリカ人との商品の直接売買の実施、(3)市中民家の戸締を開き、婦女子を見せよ、という要求についてみてみよう。(2)の要求は、当初ペリーが提出した、箱館市中の商人にアメリカ人と商品を売買することを許し、そのための通貨を定めること、という要求とほぼ同一のものであった。松前藩側は、この要求事項を了承する旨返答し、その結果「(4月)廿三日、上陸いたし候得共、自業之義無レ之、少々宛買もの等いたし候、上陸之人数四五十人、廿四日、上陸之人数廿三日同様、買ものゝ義は、店方へ彼等我侭ニ入込候得共、警固方不レ咎、店先は不二申及一奥座鋪迄も土足ニ而歩行、不行義申斗も無レ之候」(「亜墨利加一条写」)とあるように、市中商店における売買は、事実上実施されるに至った。
ではなぜこうした状況の中で改めて(2)が問題になったのか。それには次のような理由があった。まず第一に、松前藩側はペリーの要求を了承はしたものの、その真意は、市中商店における商品の自由な売買を許可するものではなく、アメリカ人が店頭で物品を望んだ場合、それを与えるというものであったこと、そのため店頭には酒はいうまでもなく高価な商品は置かないよう市中に指示していたこと、またペリーへの返書で、箱館は僻地故、ペリー側が望むような商品がないことをあえて強調したのも(「御用記写」)、右の問題と深くかかわっていたこと、などである。ところが第二に、多数の士官たちが上陸して市中を遊歩し、商店等を訪れた結果、ペリーはそれ相当の商品があることや、婦女子を隠している事実を知るに至ったこと、しかし第三に、未だ市中商人とアメリカ人との商品売買にかかわる正式な通貨協定が行なわれていなかったこと、などである。
かくしてペリーは、4月24日、松前藩の役人に対し、(2)と(3)の件を強く要求するに至った。松前藩の役人はその対応に苦慮し、井上富左右に相談した結果、井上が「何分強情之異人共ニ有レ之候事故、無レ拠候条、金銀銭等も強而差置候ハハ、いたし方も無レ之候間、預リ置候方可レ致」(「御用記写」)と指示したため、松前藩側は、その日のうちに市中商人とアメリカ人との正常な商品売買を許可するとともに代金は役所へ差出すよう市中に達すべき旨決定した。ただし、婦女子の外出は、依然として厳禁することとした(同前)。次いで翌4月25日には、洋銀1枚=2朱金6枚との通貨比を決めた(同前、『随行記』では1ドル=銭4800文としている)。
ところがこの日、1つの事件が発生した。この日上陸したアメリカ人たちが、従来みられなかったような粗暴な行為を行なったのである。これについて「亜墨利加一条写」は、「同日(25日)、彼等至而気荒ニして、戸蔀ニ締を付候族ニおゐてハ、右之締を取、自侭之所業、警衛之御役人又は町内之締方抔茂何共致し方無レ之当惑いたし候、万一彼等ニさからへ候而は、争ヘ之端と相成候も難レ斗候哉ニ候」と記しているが、翌4月26日、松前藩側がペリーに提出した抗議文(漢文)には、寺院に入って博奕をし、商店に入っては品物を持ち去り、垣根を越えて官舎に入るなど、その粗暴は殆んど狂人の如し、という意味のことが記されていた(「御用記写」)。この抗議文は、ペリーが応接所で松前勘解由以下の役人に対し、横浜・下田での日米交渉や日米和親条約の一方的解釈をもとに、箱館での遊歩区域の即時決定を迫った直後に提出されたものであるが、その中で松前藩側がこの事件を絶好の材料とばかりに積極的に活用し、しかもペリーから知らされた漢文条約文をたてにペリーに反論していることは注目されてよい。すなわち、箱館の遊歩区域は後日決めるとの第5条の規定をたてに、前日のアメリカ人たちの行動を非難し、薪水食料石炭他欠乏品の供給は、その他の役人を通じて行ない、私的な取引を禁止するという第8条の規定をたてに、アメリカ人たちが商店に入っては勝手に品物を持ち去るだけでなく、その価格も聞かずに一方的に洋銀等を投げて去ったことを非難しつつ、この2件はともに条約に矛盾し、条約の尊守をしきりにいいながら、アメリカ人がこうした行為を行なったのはなぜか、と迫ったのである(同前、原漢文、上記の文は大意)。
ペリーは、これに対し、船員の中には道理を弁えない者がいると弁解したものの、条約文とのかかわりでは、何ら反論することができなかった。かくして松前藩側は、この事件を口実に、4月27日、ペリー側に対し、以後アメリカ人の箱館における買物は、沖の口役所のみで行なう旨通告するにいたったのである(「御用記写」)。この沖の口役所における商品の売買が、ウイリアムズのいう「特設市場(バザー)」(『随行記』)であった。ちなみに、4月24日から5月7日までの間にペリーをはじめアメリカ人たちが箱館で購入した主な商品は、衣類織物類では、縮緬絹紬太織類387反余、縞木綿(無地共)106反、金襴11丈余、男女帯地66本、半襟袖口53懸、袋物類60品、股引足袋類56品、仕立衣類26枚、木綿風呂敷13枚他、塗物類では、膳椀796人前、箸箱(箸共)199、茶台177、重箱122組、丸盆119枚、弁当箱49他、瀬戸物類では、茶碗445人前、土瓶296、猪口22人前、皿類492枚、盃719、徳利215本、丼274、箸立79本、焜炉72他、荒物小間物類では、煙管1643本、煙草入866、硯99面、小筆395本、墨3646本、扇子・団扇488、傘類236本、剃刀279丁、砥石205丁、柳行李113、矢立89丁、雪駄下駄類82足、印籠72他、などであった(「御用記写」)。当時の日本の手工業製品に対するアメリカ人の関心のありようをうかがうことができて面白い。