ところで、コンスタンチーヌ号にはロシア人の捕虜30余人が乗船しており、また第1回のシビル号の入港後に、同じくフランスの軍艦ウィルジニー号が入港し、これら3艘のフランス軍艦の入港中は、フランス人とともにロシア人捕虜の上陸も許可されているが(「佛船碇泊日記」)、この間のフランス人とロシア人の箱館での行動のあり方に大きな相違がみられたことに注目しておきたい。すなわち、フランス人にあっては、実行寺で養生している同僚を見舞ったり、亀田川での洗濯や同地近辺での若干の散歩を行なっているのみで、御用所での物品の購入は一切行なっていないのに対し、ロシア人にあっては、専ら市中を遊歩し、商店を見学した上で、「入用の品」の調達と称し、御用所で漆器類他の品物を購入していることである(同前)。特に注目したいのが、後者のロシア人捕虜の行動である。というのも、捕虜であるロシア人がせっせと「入用の品」を購入しているというのも実に不自然な行為であるからである。このことは、基本的にはフランスが条約未締結国であるのに対し、ロシアが条約締結国であるという両国の対日関係の相違に起因しているが、それにしても、捕虜であるロシア人が物品の購入に専念しているところをみると、これはおそらくフランス軍艦側がフランスとロシアのこうした対日関係の相違、具体的にはロシア人の場合は、たとえ捕虜でも必要物品を入手することが可能という状況をフルに活用し、ロシア人を介して自己の必要とする物品を入手した結果生じた現象とみてよいであろう。つまりフランス軍艦は、ロシア人捕虜を自己の必要とする物品を入手するための有効な手段としてフルに活用したとみられるのである。
さらにフランス軍艦、とりわけコンスタンチーヌ号の行動で注目しておきたいのは、箱館港碇泊中に、箱館奉行他の幕吏に対し、新たな情勢を提供するとともに、大砲の鋳造方法や西洋型帆の作製方法等を積極的に伝授していることである。すなわち、安政2年8月2日、「船将」が箱館奉行竹内保徳に面会した際、竹内に「国帝より追々御国之製造の軍艦献候積」である旨伝えるとともに、8月10日には、「船将次官体のもの」が奉行配下の幕吏に対し、「長崎表【ホウ】台は如何にも御手薄の様にも見請候、右にては迚も御用立間敷哉と察居候、若当表にて【ホウ】台御築にも相成候はゝ、外面石垣等は不要害に付、土塁にて砂と土とを交々築候方肝要に候」と云って、翌日「台場築方問答書」1冊を通詞岩瀬弥四郎に贈ったのをはじめ(「佛船碇泊日記」)、次いで奉行へ「砲術書」2冊、「渾天儀文鎮」1つ、通詞岩瀬弥四郎へ「英国評判記」1冊、「築堡図書」(前記の「台場築方問答書」と同一物かは不明)1冊等を贈り、さらに武田斐三郎に大砲絵図引方を伝授するとともに、御用船神速丸の帆の西洋形帆への改良指導等がそれである(『幕外』13-2・20)。
こうしたフランス軍艦の日本への積極的な友好的対応が、一つには、箱館奉行が独自の判断で病人の上陸と箱館での養生を許可したことに対する謝意の表示であったことは確かとしても、コンスタンチーヌ号の「船将」が竹内に対し「長崎表え条約取結の為使節船差出定て御取結可二相成一と国帝も悦罷在、他国同様御心易相願度候」(「佛船碇泊日記」)と述べていることをも考慮すれば、そこには条約締結への途をも強く意識した極めて政治的性格の強い対応策という側面も含まれていたことは否定できないようである。
以上箱館開港直後、とりわけ安政2~3年に、入港外国船や来航外国人との間に生じた諸問題の特性やそれへの箱館奉行ないしは幕府の対応のあり方をみてきたが、以上の経緯からみる限り、これら諸問題への対応における箱館奉行の果した役割はすこぶる大きかったといえ、とりわけその後の対外関係のあり方を考慮した上で、老中に対して現地の状況をふまえた具体的で理論的な意見を積極的に上申し、老中の方針も最終的にはこの箱館奉行の意見に沿って決定されていること、またフランス軍艦の病人に対する対応の如く奉行独自の判断で対外関係を処理していることは注目されてよいであろう。なお、安政4年以降の対外関係や日米通商条約をはじめ諸外国との通商条約に基づく安政6年6月2日の貿易を中心とする開港以降の問題は、第3~第4節に譲りたい。