蝦夷地と箱館と

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 次に第2期の箱館奉行の任務についてみると、安政2年2月24日の箱館奉行に対する老中達(「覚」)に、「今般東西蝦夷地島々一円上知被仰付、右場所都而其方共江御預被仰付候ニ付、御警衛向は勿論、御収納并蝦夷人撫育方等之儀、諸事御委任有之候条、被其意、篤与勘弁之上、追々可申聞候事」(『幕外』9-138)とあることや、安政3年2月15日付箱館奉行宛将軍黒印状(3か条)の第1条に「箱館蝦夷地之儀、取締方万端入念、不衰弊様可沙汰、対蝦夷非分之取計不之事」、第2条に「耶蘇宗門之者於之者、其所々江申遺し可穿鑿事」、第3条に「異国境嶋々之儀、厳重取計、日本人者不申、雖蝦夷異国江令渡海儀、堅可停止一レ之、自然異国之船於令着岸者、早々可注進事」とあり、同日付老中下知状の内容は、前掲安政元年閏7月15日付老中下知状と比較すると、第1条の「箱館之儀」が「箱館蝦夷(地欠カ)之儀」と変わり、第3条の次に新たに第4条として「産物取捌方正路取計、商人共猥之振舞無之様可申付事」なる文言が加わるとともに、旧第4条に相当する第5条の文言も「万一異国之船、箱館蝦夷地之内江不慮ニ令着岸、及不義働、人数於入者、松平陸奥守・津軽越中守・南部美濃守佐竹右京大夫・松前伊豆守江申遣、人数為差出計之、早々及注進、其上ニも人数於入者、隣国之面々江可申遣事」となっていることなどの事実(菊池勇夫「箱館奉行の基本性格について」田中健夫編『日本前近代の国家と対外関係』)から窺えるごとく、その主要な任務は、(イ)箱館を核とした和人地(松前地)内の幕領地と蝦夷地全域(同地に居住するアイヌ民族を含む)の統治、(ロ)箱館開港に伴う対外関係の処理、(ハ)松前・蝦夷地の海岸防備、の3点であった。
 右のうち(イ)の任務とのかかわりで注目しておきたいことは、将軍黒印状の第2~3条にみるごとく、箱館開港後にあっても、対内的には、キリシタンの禁制を厳守しているのみならず、アイヌ民族をも従来の鎖国体制の枠の中に包みこもうとしていることである。この政策それ自体は、前幕領期の政策をそのまま継承したものにすぎなかったが、安政2年の箱館開港後のことであるだけに、前幕領期のそれに比し、その実態はより複雑な性格をもつこととなった。また、上記の問題と関連して、この期の対蝦夷地アイヌ民族対策のあり方を前幕領期のそれと比較すると、北蝦夷地(カラフト島)の国境をめぐる新たな対露関係の発生という問題とのからみもあって、「蝦夷地」の「内国」化が一層強化されたこと、アイヌ民族に対する幕府の直接的支配が一段と強化されたこと、幕府によるアイヌの和風化・同化政策がより具体的・積極的に進められたこと、などの諸点をこの期の大きな特徴として挙げることができるが(榎森進「13~19世紀の日本における北方地域の境界認識」『歴史学研究』613号)、こうした政策の現地における実施責任者が箱館奉行であった。
 また(ロ)にかかわる仕事が、この期の箱館奉行にとっていかに大きな位置を占めるものであったかは、前節でみた諸問題から窺い知ることができるが、ここで再確認しておきたいことは、箱館奉行は、開港直後に対外国船との交渉において様々な問題に遭遇し、そのため同奉行は、その対応策を相次いで老中に上申していったが、これらの箱館奉行の意見の多くがその後の幕府の対外政策に大きな影響を与えたということである。さらに、この期の対外関係のあり方とのかかわりで注目しておきたいことは、下田・箱館における踏絵の見合せという問題である。