老中から通訳者の養成を命じられた奉行は、安政2年に名村五八郎に命じて、支配下の役人に通訳の稽古をするようにと命じた。奉行は通訳の専門家を養成するという意識ではなく、あくまでも現職の役人に外国語を覚えさせようとしたのである。しかし仕事をしながらではなかなか上達しないからと、名村は若年の役人の子弟たち、3、4名の稽古を始めたのである(『幕外』19-72)。結果としてこれは大きな成功を納めることになった。この時に稽古を始めたと思われるのは、同4年に通弁御用を申し渡された立広作、同じく同6年の塩田三郎、海老原錥四郎、鈴木清吉などで、いわば名村の生徒のうち第1期生といえるだろう。当時の教授法はどのようなものであっただろうか。名村自身がその頃どのくらい英語ができたのか疑問のあるところで、ほとんど手探り状態であっただろう。
安改元年8月、箱館奉行は老中に対し、これから支配下のものに、アメリカ人への通訳をさせるにしても、辞書類がなくては勉強もできず、できれば今度派遣されてくる通詞に適当な書物を持たせてほしいと申し出ていた(『幕外』7-補遺13)ので、わずかながら書物はあったのだろう。また通訳たちが実際に外国船の応接に出るようになると、辞書類や文法書、地図類などが贈られることがあった。当初は江戸へ回されていたものの、同5年に江戸の洋学所頭取から奉行に通達があり、下田や箱館から送られてきた書籍のうち、重要な書籍は買い上げ蔵書にするが、その他については、銘々に返されることになった(『幕外』19-257)。その後、同6年4月には箱館で諸代金の代わりに外国船が提出した書籍類は、諸術調所教授役(武田斐三郎)と通弁御用のもの(名村五八郎)に検閲させ、キリスト教に無関係で支障がなければ受け取ることにした。また、交易開始後は同じく検閲の上で、必要なものは買い上げて諸術調所の蔵書とすることになった。したがって、これ以降にようやく書籍類が充実していったと思われる。ただしあくまでも役所の備え付けであったので不便もあり、名村から辞書類などは、各自に持たせてほしいとの願いが出されている(『幕外』23-66)。
なお、外国語の上達には実際に外国人との会話が必要であるという名村の意見で、稽古をしていた子弟たちが、名村について外国人のところへ行くことが許可された。当初その相手はライスであり、またその後、初代のイギリス領事ホジソンとその通弁官コワンのところへも通っている。さらに立広作と塩田三郎は、万延元年に来箱した、フランス人カションからフランス語も学んでいる。英語とフランス語の心得があるとなれば、当時は貴重な存在であっただろう。事実彼らはどちらも、後に海外派遣使節の通訳に抜擢され、中央で活躍するようになる。あるいは名村の生徒ではないが、文久元年には、ハリストス正教会の神父ニコライについて、ロシア語を学習するものも出ており、まさに北の港都の面目躍如たる感がある。