まず、この大年寄以下が担当した函館の町政の管轄範囲を確認しておく。函館山の裾に町並みを展開してきた函館は、人口の増加につれて砂州部分へと広がりをみせ、安政6(1859)年にこの砂州の中央をほぼ南北に願乗寺川が開削されると、その広がりは一層顕著なものとなった。たとえば幕末期の記録では「一本木 亀田、箱館の境也」(「蝦夷日誌」『函館市史』史料1)、「(亀田村)より七丁許過て一本木村と云ふ、家数わづか四、五軒なり、是より七、八丁にして箱館の入口」(「松前紀行」『函館市史』史料1)などとあって、「一本木」が箱館と亀田村の境界地帯として箱館の外と位置付けられている。明治に入ると、箱館戦争時の記録に、箱館を占拠していた榎本ら旧幕府脱走軍は「(明治元年)十一月より一本木町端に関門を建、夫より大森浜手の処迄木戸を拵、箱館の出入の者壱人改に致す」(「箱館軍記」『函館市史』史料2)とあり、一本木は箱館の区域内という認識が生まれ、箱館の町域の東端は一本木の町端から大森浜を結ぶ線と位置付けられている。この認識がこの時期の一般的な認識だったようで、この一本木は、明治6年8月に若松町と改称され、現在の若松町の母体となっている。
なお大森浜側の尻沢辺町については、古くは尻沢辺村と呼ばれ、箱館とは別村と位置付けられてきたが、慶応期の戸口統計では箱館市中の1町として集計されており、明治元年閏4月に旧幕府箱館奉行杉浦兵庫頭から箱館府の清水谷公考知府事へ引継ぎが行われた時には、「箱館町、尻沢部(辺)町 〆二ヶ所」(「慶応四年箱館地方及蝦夷地引渡演説書」『函館市史』史料1)と、箱館とは別に記されてた。しかし明治に入ってからの統計等は、すべて箱館市中の1町として扱っている。