明治政府が動き出しても地方制度は江戸時代のままで、人別改めも寺院の掌握に心を砕いた江戸幕府の初政の遺制のまま、宗門人別改めという形で存続していた。この宗門人別改めは、函館では町会所が担当し、町年寄・名主の指揮のもと、町代・組合頭が実務を処理していた。10月の6、7、8日に昨年の下調べ帳との照合を行い、16、17、18日に各戸筆頭者(百姓帳頭)を呼び出して実施したと「月次風俗」に載るほどの行事であった(「箱館風俗書」『函館市史』史料1)。
しかし、この宗門人別改めは百姓町人といわれる人々が対象で、士籍のものなどは含まれていなかった。明治2年に版籍奉還を実現した政府は、統一国家造りを目指してその基礎となるすべての人民掌握を全国統一的に実施すべく戸籍法を制定(明治4年4月4日太政官布告第170号、明治5年2月1日実施のいわゆる「壬申戸籍」)した。この戸籍法では、これまでの戸籍体制では遺漏が生じるので、すべての臣民(全国民)を漏れなく、住居地毎にその戸数人員生死出入等を把握することとし、そのための「戸籍区」を設定し、戸籍吏としての戸長、副戸長を置くこととした(大森佳一編『自治民政資料』)。