函館市民はこれらの税負担とは別に、函館の町を維持していく経費を分担して負担していた。「維新前町村制度考」ではこの経費のことを町内入費と呼んでいる。同書に「町内入費ナルモノハ往昔ハ絶テ徴収セザルモノナリシガ、函館ハ寛政十一(一七九九)年十月ヨリ同十二年十二月迄一ヶ年ト三ヶ月ノ入費ヲ町役人ヨリ届出タル事、旧記ニ見ユ」とあり、寛政11年からの町内入費を享和元(1801)年に初めて市民から割合をもって徴収したと記されている。箱館が町並みを形成するにしたがって町内でかかる経費が増加し、町内入費として市民が分担しなければならなくなったのである。
その町内入費の代表が「坪割銭」と呼ばれているものである。町内入費を市民が負担するに際し地坪を基準にしたため、このように呼ばれた。地坪の地位は見聞割をもって行われ、内澗町、弁天町、大町は1坪に付銭10文(後12文)、大黒町、山上町は同じく6文、三町(鰪澗、仲、神明)、地蔵町は同じく4文となっており、文政・嘉永期は1か年ほぼ7~80両であったという。坪割銭の徴収は年2回(5月と12月)で、町会所発行の切符「札」をもって徴収した。この坪割銭は、明治5年に大小区制が導入され、町会所経費を大区費として整理されるまで続いた。
次に町会所の事務費といえる「筆墨紙料」であるが、宗門改の時にその他の役銭と共に集められた。慶応2(1866)年の宗門人別帳によると、1戸に付27文と記されている。また松前藩支配の時は現物支給であったと記されているが、具体的なことは不明で、開拓使設置後も同じように徴収されていたかもよく分からない。
また、函館の氏神函館八幡宮の祭礼費用である「祭礼銭」も宗門人別改下調の際徴収されている。分頭25文が徴収されたという。この祭礼銭は明治5年に大小区制が導入された後も、町会所が引き続いて徴収を続けたようであるが、明治10年3月に「郷村社祭典費支出ノ儀、大小区割又ハ町村割等区々相成居候処、右ハ氏子ノ信仰ニ任セ各社適宜執行致シ可成、民費ニ賦課不致様可相心得」(明治10年「御達留」)との諭告によって、神社個々の対応に任され、町内入費の系譜を引く民費(区入費)の枠から外れることとなった。ただし、函館では後述する大区費小区費ともその内訳に祭礼費のような項目がなく、町会所がどのような形で八幡宮の祭礼に関与していたかは不明である。
明治5年以降は、政府が地租に代表される「税」をもって徴収し直接支出する「官費」に対して、それ以外に人民が負担する費用は民費と総称されるようになり(藤田武夫『日本地方財政制度の成立』)、この町内入費もその民費の枠内に位置付けられ、次の区入費に連なっていく。