表4-30 3都市の人口比較
『北海道庁統計書』より作成
明治19年 | 明治25年 | 明治30年 | 明治34年 | 明治38年 | |
札幌 函館 小樽 | 16,327 43,550 15,882 | 26,022 60,382 31,472 | 35,306 73,968 54,966 | 48,720 84,953 71,610 | 60,884 87,258 86,471 |
図4-16 内国貿易額と人口の関連
人口数 と累計金額との相関関係を係数から見れば、0.58とそれほど高い数値を得ることはできないが、全体の傾向で把握すれば類似する点を知見できる。つまり累計金額の変動は明治10年~17年にかけて増減し、同17年~22年にかけて停滞し、その後同33年頃まで上昇し、さらに同38年頃まで停滞するという傾向にあった。また先の表4-30との関連で小樽の累計金額が明治30年頃になると、函館を越える状況においても人口との関係が高いことの例証であろう。これらを行政庁の変遷に比定すれば開拓使の時期は上昇傾向で、函館県期では停滞し、北海道庁期は再び上昇し、函館区の自治制期に至って再び停滞期をむかえることになった。この傾向は土地の売買高においても、明治21年以降一時期やや減少する時期はあるものの、同29年をピークに同30年頃まで上昇傾向にあった。
これから理解できる点は、函館における市街地の拡大期として明治20年代がもっとも動きの大きかったことが推察できる。つまり人口流入によりそれらを受け入れる居住空間が必要となるからである。またこれらの人口流入をもたらした資本の蓄積を誘引するためには、都市機能を具備することが必要であり、そのための都市空間の拡大がまず海面埋立として実体化していった。この都市機能から見た海岸線の優越性が、高い地価として現れた。さらに市街地拡大の前段階として、内陸部の埋立や官有地払下げなどが位置づけられるし、拡大のインパクトとして上水道敷設が考えられた。
その後の市街地の拡大も上水道の第1次拡張工事に依るところが大きいし、その拡大の範囲は給水栓の配置にある程度規定されている。このような市街地拡大の動きが、「函館港は十数年以前に在りては区の中心は末広町大町の境界にありしを以て敢て該道路を開設修築すべき必要なかりしと雖も、既に市街の中心点が一躍鶴岡町と地蔵町の町境に及るに」(明治34年9月12日「北海朝日新聞」)と市街地の中心地移動を誘引していた。また、もうひとつの影響として市街地の中の商業地区と居住地区との間に米穀雑穀、雑貨荒物酒類などを扱う商店が増えて、商住混在地区がみられ機能分化が進むことになった。
明治30年代における都市空間拡大は海面の埋立に集約される。つまり旧弁天台場地先の埋立と若松町の埋立であり、倉庫地としての活用と港湾施設の改良を兼ねたものであった。そのうち若松町の埋立は鉄道停車場の移転地として転用された。この時期は船舶だけの交通体系から鉄道を含めた体系への移行期でもあり、「本道に於ける交通機関の全通は、函館に依りて本道と内地との連絡を通するに至るへく、我函館は之に依り貨物の集散は著しく増加すへく、之に伴ふて事業は尤も敏活なる運用を要するに至るべき勿論なり、之れ函館区の繁栄を購ふへき区民の債務なり、区民は鉄道全通に伴ふへき区の繁栄をして、遺憾なく成功せしめんが為めには之に伴ふ諸般の設備を怠るべからす」(明治35年12月13日「函館公論」)と交通要所の地としての都市機能の整備が求められていた。
またもうひとつの交通機関として注目すべきは、馬車鉄道であり、湯の川温泉地と市街地を結び函樽鉄道とも結節することになった。馬車鉄道の影響として、行動圏の拡大をもたらしイメージ的に当時の都市空間は拡大されることになったと推察される。
以上のとおり明治期の都市空間拡大の要因は、商品流通の集散地としての「場」の既得にあり、これにともなう都市空間拡大の様相は、都市機能整備のための埋立地の拡大と、人口増加による市街地の拡大によって説明することができる。また新たな交通体系が都市空間のイメージ的な拡大をもたらしたとも考えられるのである。
最後に補足的になるが次の項目の施設の移転との関連で、都市空間拡大の事例にふれておきたい。それは山の上遊郭移転と幸町埋立との関連であり、「第二大区二小区弁天町住家諸商人共、近年営業向衰微の趣にて、従来区内潤助の為め同区西浜町海岸築出の儀ニ付、弁天町一同より懇々頼入の趣も御座候ニ付、私儀営業上の外別段余力等有之義には無御座候得共、右区内の情実洞察仕候所、兵火の災厄後山ノ上遊廓転地以来追々商人共営業上衰微を醸し候儀は相違も無之」(「幸町埋立関係文書」『函館市史』史料編第2巻)と弁天町有志らの願いを受けて、杉浦嘉七が海岸埋立を志願した。つまりこの埋立により弁天町の営業の衰微を新たな都市機能の具備により再興を図ったものである。