港湾改良首唱者総代の意見

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 蒸汽船時代の到来、すなわち、船舶の大型化時代、もっと一般化すれば、産業資本時代の到来を眼前にした明治25年に出された上申書『函館港湾浚渫修築并ニ船渠設置意見上申書』というのが今に残されている。本書は明治25年11月、函館港湾改良首唱者総代久保扶桑、杉浦嘉七、遠藤吉平、平出喜三郎、平田文右衛門という函館経済界の代表達の連名による北海道長官北垣国道への上申書と諸資料からなる。
 これを見ると、すでに明治9、10年頃から当時の函館経済界(商人資本の近代派)のリーダー達が、いかに函館港湾の重要性を深く認識していたか、それが故に、その港の荒廃をいかに憂いていたかがよくわかる。この意見上申書は、函館港の浚渫と船渠設置を並置している。船渠は船舶の修理、改良、新築用である。明治10年頃は、西洋型帆船を対象としていたが、この25年の上申書では、明らかに蒸汽船を対象にしている。この上申書に添えられている日本全国著名港湾船舶出入比較表がこれを示している(表5-1)。
 
表5-1 日本全国著名港湾船舶出入船数
地 域 別
汽 船
風 帆 船
日 本 形
大阪3港
神奈川4港
兵庫13港
長崎4港
新潟19港
三重6港
愛知6港
宮城5港
広島4港
山口3港
福岡7港
大分8港
北海道23港
函館1港
日本全国
1港平均
27
3,880
7,611
1,726
1,191
3,072
1,983
1,109
3,316
6,867
4,652
1,363
3,167
2,137
48,458
281
26
3,766
7,601
1,718
1,190
3,114
1,924
1,092
3,323
6,869
4,658
1,363
3,168
2,171
48,233
280
30
664
294
4,979
225
283
446
631
128
615
150
57
868
498
12,012
69
30
770
299
4,967
229
251
385
628
128
627
152
35
870
551
11,141
64
12,459
9,946
153,975
11,467
10,166
67,134
16,580
457
25,644
35,004
38,171
4,692
6,344
775
465,949
2,708
12,822
9,943
153,975
11,518
10,175
67,413
16,661
465
25,864
35,016
38,400
4,800
6,393
1,738
468,949
2,726

『函館港浚渫築修井二船渠設置意見上申書』より引用
 注 典拠は『帝国統計年鑑』であるが、函館は22年の調査、他港は20年の調査。

 なお、本史料の備考には、大阪3港の汽船の「出27、入26トアルハ疑フベシト雖モ之レ或ハ川内二出入スル瀬戸内通ヒノ小蒸気船ヲ省キタルモノカ」と注されている.
 
 ただし、この表によれば、全国的には日本形帆船が、断然、船舶の主体をなしていることがわかる。特に、日本海(新潟、山口)瀬戸内海(大阪、兵庫、広島)東京-大阪間(三重、愛知)など古い海上ルートの港は、今や日本形船の全盛期にあった。ただし、神奈川4港だけは別で、この代表的外国貿易港は、汽船が日本形帆船の半分くらいを占め、汽船が既に優位に立ちつつあることを示している。それより顕著なのは、風浪荒き太平洋岸の東北、北海道各港で、中でも函館港の汽船の出航数、2137艘、入港数2171艘というのは、飛び抜けて目立つ存在である。函館では、すでに日本形帆船は汽船にはるかに及ばず、西洋型帆船(風帆船)は、その日本形船にすら及ばない。この両方を合わせて、ようやく汽船の隻数と並ぶ数字を示している。ただし北海道23港の数字を見ると、日本形帆船が汽船の2倍の隻数を示している。かくして、日本全体および北海道では、日本形帆船(和船)が、商船あるいは貨物運送船、海運の相当部分をいまだ占めつつあるとはいえ、全国的には蒸汽船が、函館を中心に、すでに優位に立っていることがわかる。この蒸汽船優位が、函館港を相対的に狭隘化し、港内水深の浅いことを痛感させ、その填埋を函館港の急務と感じさせた理由であろう。
 この上申書をみると、防砂堤を新設すること、船渠の地を従来の船渠論の内容と異なり、函館港西端とし、埋立によってこれを創造することに加えて、防波堤の役割を強調している。次にその要約をのせよう。
 
……世人ハ函館港ガ我カ国第一ノ良港タルコトヲ是認スルト雖モ単ニ天然ノ作用ニ任セ人工ヲ以テ之ヲ補理スルノ必用ナルヲ知ラス……是レ某等ガ夙ニ国家ノ為メニ奮慨シ港湾修築ノ長策ヲ講シ日夜拮据措カサル所以ナリ……我等ガ之ヲ企画セシヨリ既ニ十有五年ノ星霜ヲ経タリ而シテ眼前港湾ノ変更ヲ閲スルニ昔時沿岸数尋ノ深キモ今日ハ既ニ泥沙ニ湮埋セラレ船舶碇区域ヲ縮小スルニ至レリ若シ今日ニシテ早ク之カ計画ヲ実施セス自然ノ埋没ニ放任セハ他日船舶ノ出入ニモ堪ヘサルノ浅瀬トナリ今日万屋櫛比帆檣林立ノ地モ百年ノ後ハ荒寥ノ一海浜ト化ス……。
 往年海水ノ深ク環入セシ良港モ近年人口ノ増加スルト船舶密接ノ関係ニ迫ラレ漸時沿岸ヲ埋立テ爲メニ港湾潮流ノ中心ヲ失ヒ遂ニ海水運動ノ変更ヲ来タシ往時巴字形ヲ以テ称セラレシ湾内モ目下其形ヲ認メス其潮流ノ変更ヨリ来セル所ノ障害ハ風位ト潮流ノ勢ニ依リテ東北ノ海浜七重浜亀田辺ノ浅瀬ノ土沙ヲ港心ニ流出シ北岸矢不来ノ山崖ヲ崩シ港内ヲ埋没スルコト夥シク之ヲ往日ニ徴スレハ明治二年露国軍艦フサジニツク号ノ測量ト明治十六年函館県ノ実測トヲ比較スルニ十年間ニ港内平均五尺二寸余ヲ湮埋スルノ実跡アリ降リテ明治二十一年道庁技手ノ験測ニ拠レハ一ヶ年ニシテ最多ハ六寸以上少キモ二寸ニ降ラサル埋没ヲ報スルニ至ル……日本郵船会社ニ於テモ亦定期船定繋ノ「ブイ」ヲ遠沖ニ転スルコト三菱会社以来前後四回ニ及ベリト云フ而シテ其一回ハ一回ヨリ市街ノ沿岸ニ遠サカリ二十一年ノ調査ニ依レハ九ヶ年ノ平均ニテ年々五間強ツツ投錨ノ位置ヲ遠カラシムルト云フ爲メニ貨物ノ積卸運搬船客ノ乗船上陸ハ頗ル困難ヲ極メ秋冬西北風ノ位置ヲ烈シキ場合ハ往々通船ヲ中止スルコトアリ……
 近年商業上ノ活発ナル長足ノ進歩ニ拘ラス此ノ如キ非常ナル不便ノ感ヲ懐カシムル豈之レヲ全然無欠ノ良港ト誇称スルヲ得ン若シ今日ニシテ猶荏苒等閑ニ付スルトキハ遠カラスシテ天然無比ノ良湾モ徒ニ土沙ニ湮埋セラレ……。(明治十二年肥田浜五郎・モルドル・二十年桐野利邦・二十一年メーク等)
 諸氏ノ調査スル所起工ノ大小ニ於テ稍々差アリト雖モ其港内ヲ浚渫シ砲台尖頭ヨリ燈明船ノ方位ニ向テ築立ヲ爲シ東方海岸町地先キノ海中ニ沙除ノ突堤ヲ築キ其碇場ヲ広メテ以テ船舶ノ安全ヲ保護セントスルニ至リテハ皆同一ノ揆ニ出テサルナシ……。
 函館ノ繁栄ヲバ將来益々増加セシメント欲セハ先ツ其基原タル港湾ヲ浚渫修築シ碇ノ区域ヲ広メ船舶ノ保護ニ必要ナル船渠ヲ設ケ漸ク進ンテ貨物ノ積卸ニ最モ便ナル桟橋鉄道等ノ設備ヲ爲シ港岸一帯悉ク至便ノ地タラシメサルベカラス然ルニ現今状况ニ於テハ朝ニ帆檣ヲ迎ヒ夕ニ黒烟ヲ目送スルノ沿岸ニ住居スルモ直接ニ其利益ヲ受クルモノハ僅ニ西、西浜町ヨリ東、船場町ノ沿岸ニ止マリ其延長数丁ニ過キス而シテ其以北真砂町ヨリ海岸町迄ハ一面ノ浅瀬ニシテ岸ヲ離ルル数百間ニ至ルモ其深サ纔カニ三四尺ニ過キスシテ小舟ダモ繋留スルヲ得ス况ンヤ西北ノ風起ルコトニ怒濤浅灘ニ激シ艀舟動揺貨物ノ運搬ヲ爲スベカラザルヲヤ然ルニ今東此ノ一面ノ遠浅ヲ浚渫シテ砂除ノ突堤ヲ設ケ其海底ヲ深フシ西ハ砲台ノ尖頭数百間ヲ築出シ以テ西北ノ風濤ヲ遮キルトキハ今日東辺荒寥ノ沿岸忽チ化シテ熱閙ノ船付ト爲リ砲台以西ニ於テ商工業ニ適当ナル地積十余万坪ヲ得ルニ至ル此ノ如クナラハ今日六万ノ人口ハ数年ヲ出テスシテ忽チ十万ニ達センコト期シテ待ツヘキノミ……近頃南北両米汽船会社ニ於テハ横浜ヨリ帰航ノ汽船燃料ノ石炭ハ船ヲ函館ニ寄セ廉価ナル幌内産ヲ取ラントスルノ計画アリト……欧米郵便汽船ノ船体ハ頗ル広大ナレハ其碇場ハ必ス三十尺内外ノ深サナカルベカラス……目下倉庫貯蔵ノ面積ヲ算スレハ貨物三十万石ヲ容ルルニ足ル……本港商業者ガ荷爲替、蔵預リ、抵当貸等金融ノ便ニ頼リ……。(商業上臨海倉庫の重要性を説き)然ラハ之ヲ爲スコト如何即チ早ク本港ノ浚渫修築ヲ爲シ其繋場ヲ広メ船舶ヲシテ出入倉庫ニ接近スルコトヲ得セシメ其艀舟ノ往復一日三回ノモノハ四五回ナラシメ漸次進ンテ西洋著名ノ大港ニ設ケアル所ノ桟橋鉄道及ヒ起重機等ヲ設ケテ遂ニ現今ノ艀舟ヲ廃シ更ニ港内数ヶ所ニ安全ナル大倉庫ヲ設ケ直ニ本船ヘ貨物ノ積卸ヲ爲スノ手段ヲ設クルニ至ラハ始メテ東洋無比ノ港タル実ヲ得ルニ至ラン……