岡村小三郎

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 この岡村は、岡村小三郎といい、『北海道立志編』第2巻にその伝記がかかげられている。それによると、岡村小三郎は「かって徳川政府の偵吏を勤め赤総の十手至る所世人を恐怖せしめざるなし、明治初年榎本釜次郎等に從て脱走函館五稜郭に據り特務偵察の任に当る、二年賊平らぐの後、氏又特赦の令に逢い、函館の人傑柳田藤吉の勸めに基き実業界に脚を投ぜんと欲し先づ柳田の所見を問う(中略)、氏は文政九年函館弁天町に生まれ父を庄八と称し木工を業とす、後幕府の建築受負業者となる。氏始め父業を相継せしと雖も、八九年を経て、遂に偵吏の職に就く」という。柳田藤吉の勧めで実業人に転身したとされる。というのは、彼は、もともと下級とはいえ「元来士家に育って」いるからである。彼は、実業の中から運送業を選んだが、同書には「伝馬船四艘を浮かべ民部省の許可を受けて漸くその緒に就く、時、明治四年なり」とある。なお、『函館海運史』では、岡村小一郎となっている。
明治4年に運送業を始めたというのは、次の文書によっても裏づけされる。明治4年1月13日、海関所から問屋へ次のような達があった。これによると「艀下」が汽船入港時に付随して起こったことになる。

 
一 蒸汽船諸回船当地出入の節御用荷物並御用にて往来の者艀下舟の義、御用伝馬と唱へ是迄問屋共より客船へ申付、爲差出候義の処、差支も有之候に付、今般当局付の舟二艘差出、配下水主にて艀下爲取扱候筈に付、賃銭の義、右の割合を以請取候様申付候間、御用荷物御用往来は勿論、其他望の儀は水主方へ対許可いたし事
艀下賃銭割
一 乗人 一人  一朱
一     三人迄 二朱
      五人迄 三朱
      十人迄 一分五朱
一 米 四斗八俵に付き  銭八十文
一 油樽 〃        〃百四十文
一 酒樽 〃        〃百文
一 衣類其他筒もの一つ 〃百文
但筒物の大小軽重により増減は相対の事 右の通にて元船より海岸迄運送致候事
(田中家文書 明治二~四年「諸用留」)

 
 この「艀下」の営業化が、岡村小平(仲浜町岡村小三郎)等の願書に対する許可の形で実現した。
 艀繋置場についての願書、
 
   以書付奉願上候
私儀先般奉願上候艀下船繋場無之候ては以甚難渋仕候間、何卆格別の以御憐愍内澗町波止場より回漕方木村万平出張所通迄、別紙絵図面の通前書艀下船繋置申度奉存候間、石浜通石垣下へ枕打込繋置度存候間、御差支の儀も乍被為在候はば右願の通被仰付被下置度此段奉願上候 以上
      壬申十一月十三日
                岡村小平
                亀井勝蔵
                松代伊兵衛
                新田孫右衛門
民事御役所
(明治五年「内澗町丁代 亀井勝蔵扱書類」)

 
 この願は、明治5年11月14日第3大区町御用持石川喜八、第2同亀井勝蔵が、役所に艀船堀割の内へ繋ぎ置くことは町内では差し支えないとの答をして承認されたようである。
 明治6年11月、岡村小三郎は、廻船問屋に対し、問屋総代艀下取扱人岡村小三郎の名で、当港出入外国船並び御国形船に荷物運送艀下取扱の請書を差し出している。以上の文書からみると、維新前の艀業務は「御用伝馬」といい、政府所有の艀を使用、実務はすべて問屋が行っていたことがわかる。維新後「艀下」という旅客及び貨物運送部門が独立したようだ。最初は後の通船と艀とが分離していなかったようである。艀業が民間業務になったのが明治四年艀船の出所は、どうやら官(民事御役所)のようである。荷主は回船問屋一般であり、岡村小三郎は、何人かの運送業者の代表の形で艀業を営んでいることがわかる。すなわち明治の始め、港湾運送業は、艀業として特化したが、その荷主は江戸時代と同じ問屋で、船主は同じ回船問屋で和船であった。いってみれば、商人資本から海運資本がまだ独立しない時代で艀船は、すべて政府所有、管理の時代が岡村の生まれ出た時期だったといえよう。